パラダイムはシグモイド

最近のAI技術の発展を眺めているとシンギュラリティも近い気がするが、多分そんなことはない。

1970年の大阪万博は黄金の未来都市が来ると想像していた。人類が宇宙や海底にまで入植している壮大なものだ。なぜこのような夢を見ることができたのだろうか。

1920年~70年の間というのは人類が支配圏を拡張する半世紀だったから、このような未来予想図が受け入れられてたのかもしれない。布張りの複葉機だったのがジャンボジェットに進化し、ゴダートの小さなロケットは月面着陸を果たすまでに成長し、海底探査も進んで米ソの原潜が深海を縦横無尽に走り回り、南極には基地が多数建設されていった。そういう50年だ。その技術発展観を外挿すると、この未来は十分あり得る社会の姿に見えたのだろう。

翻って、現実の50年後。1970年から2020年の技術発展トレンドはどうだっただろうか?

2020年になっても海底入植はなされていないし、宇宙開発も遅々として進まない。アポロ計画もコンコルドも高コストを理由にとっくに消え去った。皮肉なことに、人類の活動圏は拡張どころか目に見えないウイルスによって大きな制約を受けている。

事実、この50年の人類文明はフロンティアへの物理的拡張とは逆の方を向いていたと言える。シリコンを極小空間に集積させ仮想の世界に足を踏み入れる、コンピューター技術の発展が象徴的な50年だ。そういうわけだから、当然現代人の未来予想はこの流れを汲んだものになる。今後50年で汎用AIが生まれ、人間と区別がつかないアンドロイドが普通に歩き、意識をコンピュータにアップロードできるようになると想像している。それはどこまで確からしい予測なのだろうか?

指数関数的に発展していく技術というのは、間違いなく幻想だ。ある分野がブームになると発展していくが、ある時点でコストや実用性の問題で頭打ちになる。科学技術の発展というのは、いろいろな分野ごとにシグモイドの成長曲線を描いて発展しては停滞し、発展しては停滞を繰り返すのだろうと思う。トーマス・クーンはそれをパラダイムという概念で説明した。

残念ながら、今のAIブームがずっと発展してユートピアの社会が訪れるという予測は、やはり客観的なのかどうか疑問が残る発想だ。端的に言って、ただの流行り廃りに振り回された未来図ではないかと思う。むしろ、現時点では想像すらできない新技術が現れ、それによって社会が一変する方がありえそうなのではないかという気がする。

半世紀前、大阪万博に来場したどれだけの人が、50年後の華やかなりしインターネット世界を夢想できただろうか。もはやSNSと切り離すことができない我々のライフスタイルや、youtuberという職業が人気を博していることや、FaceRigで身体を没入させて仮想世界で遊べるVR chatの存在や、あるいはリアルタイムで双方向的なオンライン学会が可能となっている現実の2020年を、その一片だけでも予測できた人は、果たしてあの場にいたのだろうか?

今は萌芽に過ぎない理論や技術がじわじわと発達してゆき、ある臨界点を超えると一気に注目されるようになり、大変なインパクトを持って社会に受け入れられ、しまいには現代文明の根幹を成す鍵となる。今は夢想すらできない未来社会へ、気が付かないうちに到達している。それが現在予想されるような未来世界、例えば汎用AIのインターフェースと自然言語で雑談したり、街中をアンドロイドが闊歩している、というようなものかは分からない。実際の未来はどうなっていくのか、誰にも分からない。だから想像もつかないエキサイティングな未来が待っているかもしれない、と構えていた方が絶対に面白いんじゃないかと思う。

そして私が基礎研究というモノに魅力を感じている理由も、そういうところにあるのだろう。


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