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「まめ」と「豆」と「忠実」

「まめな人」という言葉がある。
この「まめ」とは、「まじめ」を略した言葉、ではなく食材の「豆」のことを指している。

なぜ「まめ」なのか、なぜ「豆」なのか。
それは「豆」が小さく、細かなものであり、その形容を形容詞として「まめ=小さいことも見逃さない、事細かな」というような意味で人を形容している。

「まめな人」はどういう時に使うか。
作業なり行動なりが事細かで、小さなこともスルーせずに確認するような人を指し示す時に使う。主に褒め言葉である。

つまり、「まめ」という形容詞がついているものは褒められているのである。

それでは、次の言葉を見てみよう。

「豆大福」
「まめだいふく」

大福に「まめ」がついて、「豆大福」である。

なにかを褒める時に使う形容詞である「まめ」が「大福」についているのだ。

ということは、「豆大福」は褒められているのである。
「豆大福」は、普通の大福よりも、上、格上の存在なのである。

豆大福の魅力、豆大福の真価をどう表そうか、悩んだ時期があった。
通常の大福よりも構成要素が多い、つまり豆という要素が加わったことで単純にレベルアップしているのだ、とか、
餡と餅と豆、この3つの要素が組み合わさった時、他の大福に比べて最高値は高い、だとかそんなことを言っていた時期があった。

しかし、↑のような理由は、草大福にも栗大福にもいちご大福にも通用してしまう。まったく完璧じゃない、穴だらけな論理だった。そんなことにも気づかない僕はまめではないんだろう。

そもそも無理な話だった。
味覚は人によって異なり、好き嫌いは人の数だけあるのだから、ひとつの食べ物を誰もが好きになることはない。
豆大福を全人類に好きになってもらおうという僕の願いは、叶うはずのない、雲をつかむような、全く現実を見ていない甘すぎるものだった。
苦い現実に突き当たった僕は、それでも、どうにかして、少なくとも和菓子のホームカントリーである日本、日本人にだけは豆大福の魅力を知ってほしいと願った。
神に願った。おみくじまで引いた。しばし待てば叶う、と書いてあった。まじか。

そして今日、南青山にある「まめ」という和菓子屋さんに豆大福を買いに行った時、とつじょ降ってきた。閃いた、という表現の方が正しいか。いや、神様に願った後に閃いたのだから、本当に天からの贈り物なのかもしれない。

「まめ」という言葉が人を褒めるときに使う言葉であると。
「まめ」という言葉はなにかを褒めるときに使う言葉であると。
「まめ」という言葉がついている「豆大福」は褒められているのだと。
通常の大福よりも、草大福よりも、いちご大福よりも、栗大福よりも、豆大福は偉いのだと。

味覚という、統一できないものは諦めた。
じゃあ言葉は? 日本人に限定されるが、日本語という統一されたフォーマットにおいて、豆大福の優位性を示せれば、それはもう豆大福最高!ということになるのではないか。

そして、僕は豆大福の優位性を示した。
雌雄を決した。ようやく僕の戦いは終わった。

と、妄想で書いてるうちに「まめな人」のちゃんとした意味が気になったので調べてみると、どうやら「豆」のことじゃないらしい。

まめな人の「まめ」は「忠実」と書き、「誠実で真面目であるさま」という意味だそうな。時間が経つに連れて、「まめ」の意味は変わっていき、いまでは「気が利く」「行き届く」のような使い方もされていますが、決して「豆」のことではないと。(「まめな人」の「まめ」とは?)

必死に築き上げた豆大福天下は、数分のネットサーフィンで崩れ去った。

10分くらいで書いたものだし、別に違ったって悔しくないですけど、ええ、悔しくないですけど、はい。

あれだね、ネットに書いてあることが本当だとは限らないし、歴史書とかに書かれてることが本当のことだとは限らないし、実際は「豆」だったりするかもしれないし、そこんとこは確かめようもないのだけど。

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