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ぽコⅩに行ってきました。

合唱団ぽっきりの第10回定期演奏会に行ってきました。
Twitter に投下した感想を並べつつ、文字数の都合で書ききれなかったことを付け加えていきます。

本当は……帰宅すぐに投稿するべきだったんですが、下書きに保存したまま熟成してしまいました。いまさらながら。

なお、この記事で紹介するツイートはすべて140文字です、などと付記しておきましょう。

恥ずかしながら、これまで萩京子作品にふれることがまったくなかったもので、萩さんの作曲テイストがわからない状態で聴きに行ったのです。そうして生まれた率直な感想が、これ。終わってみないと終わったとわからない。

例えば信長さんの曲は、フィナーレが見えてくることが多いですよね。もちろん萩さんにも満ち干があって単調ではないのですが、なんだか唐突に終わる気がしたのです。それが良い悪いではなく、そのように感じたという話です。

短歌や俳句は、読み手のなかで完結するのだそうです。短文に限らず、あらゆる文章というものは、人に読まれてはじめて文章として成立する、と。歌も同じで、聴き手がいてはじめて歌になるのだ、と。

つまり、聴く人によって受け取り方が違うというあたりまえのことで、どんな曲にもあてはまることなのですが、特に曲の終わりというわかりやすいポイントで、その後があるとすれば……という想像法、ガイドラインを与えてくれるわけです。

コンサートの後に、誰かとお互いの想像を話せたら素敵ですよね。それでフィナーレを共有する、と表現したのです。

私の弟が定期演奏会を聴きにくると、いつも1ステージで飽きるのです。当然です、1ステージは外国語曲なので小学生には荷が重いのです。結局2ステージ以降から入場してくるのが毎年のことになっていましたし、私も仕方がないことだと思っていました。

ただ、このコンサートには日本語の曲しかなかったのです。そうか、こういう構成もありだよね、と気付かされました。これなら弟も飽きないだろうな、と。

外国語曲、特にラテン語宗教曲は、合唱人の原典として必須の教養だと思います。だからといって、コンサートを聴きに来た未経験者に強要することはないのです、合唱人でなくたって聴きに来ていいのだから。

もちろん、宗教曲に魅了されて合唱を始めるのも一興ですし、合唱をしている以上はいずれ通ることになるのですが。

もう一つ書けなかったことですが、萩さんはとても日本語をたいせつにして作曲していて、演奏者もそれを丁寧に伝えていたのがわかりました。
私はなかなかできないのですが、今後精進したいポイントです。

ああ、じらいくじら。合唱は物語を語るにはあまり向いていないと思っていましたが、見事に裏切られました。音は一瞬で消えますが、記憶は消えないのです。

すこしだけ、だれも知らない牛の話が思い出されました。

西岡さんの言葉を借りれば、世界一うまい合唱を聴かせていただきました。
感謝、感謝です。

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