終わりのない歌・私的解釈

主は今年の定期演奏会で終わりのない歌/あなたのことを(混声版・上田真樹)を演るので、解釈をしてこいと仰せられました。私はここに謹んで私見を述べたいと思います。

注: 私は和音理論をシステマティックに理解していないので、ウソを言わないようにするために和音にはあまり触れません。:注

さて、まずは題の「終わりのない歌」について語らねばならないでしょう。歌というのは時間的な連続です。だから、終わりのない歌なんてものは存在しません。これは至極当然の事実です。

歌うという行為は、聴衆と歌い手がある時間と場所を共有するという前提の上に成り立っています。ひらたくいえば、自分の人生の一部を他人に分け与える行為なわけです。
したがって、終わりのない歌を歌うということは、未来永劫にわたって自分/他人の人生を構成する時間と場所をお互いに分け与え、共有することを意味するのではないか、というのが私の考え方です。

終わりのない歌――この言葉を口にするということは、歌の終わりのみならず、自身と聴衆の人生の終わりをも予期せずに = 意識外に追いやっているのです。彼は/彼女は、終演を知らないのと同様、終焉を知りません。

ページをめくりましょう。1. 光よ そして緑。

最初はpfのアルペジオが目立ちます。オーソドックスな4/4拍子でありながら、このアルペジオと7連符が拍節感を撹乱してきます。早朝の光が木の葉に触れて雫となり、頭上から降り注ぐイメージを呼び起こします。あるいは雨ではなく靄かもしれません。光の雨は脈をうちながら次第に強くなりますが、5小節で一度落ち着きます。5/4拍子になって、最後の2粒が落ちるのです。

雨が止むと、その正体が光であったことが告げられます。同時にかかっていた霞が晴れ、pfがなにかを語りだします。日の出です。気温が上がり木々はいっせいに活動をはじめます。白くぼやけていた視界は一面のみどりに。pfの旋律は、なにものかの精の<ことば>であるように感じられます。光あるいは緑か、それとも。彼らがなにを語っているのか、私達にはわかりません。精たちは私達と違うテンポを生きていて、それが便宜上、私達の言葉である7連符や6連符で表現されているだけなのです。

私達は精たちに問いかけます。何を伝えたいのかと。しかし私達の言葉もまた、精たちに通じることはありません。重ねて問いかけます。遊んでいるのですかと。精たちはなにか答えようとしているのかもしれません。

しかし直接の返事はないまま、麗しい朝のひとときは終わってしまうのです。やはりアルペジオで。どこか葉の上に湛えられた、最後のひとしずくを受けて。そうして私達は短い夢から醒めます。

さて、この精は何者でしょうか。我々を包むようでいて、我々と会話ができない存在。それとも精は、意図して会話しないのでしょうか。

歌詞では "光と緑" および "僕たち" の対比構造が描かれます。これによって、一人称が複数であることも明確になります。生命力に満ち溢れた緑、世界で一番真っ直ぐな光。対して、まっすぐに進みきれない僕たち。試してくださればわかること、と "あなた" = "光" に対する挑発的ともとれる台詞は、まっすぐになれないもどかしさの現れのようにも思えます。

2. 月の夜。1曲目と違い、イントロにpfによる状況描写はなく、代わりに描写をテノールが請け負います。これは風景が "僕たち" の視点から語られることを意味するのかもしれません。のちに女声が加わり、暗い夜、月、ひっそり、たたずむ僕たち、暗闇、さえざえと、照らされるこころ、の断片が揃います。

またアルトとソプラノによって、ここまでの "僕たち" とは "ふたり" であることが明示されます。強弱記号によると、この密会は誰にも見られてはなりません。

ここで僕たちと対照されるべきものは月です。唯一の存在であるソプラノのソロはその象徴でしょう。僕たちの心を見通しておいて、なお月は動ぜず僕たちを照らし続けます。
1曲目と比べて、pfに光の象徴であるアルペジオがまったく出てこないことに注目してください。ソロはこの暗闇の中で唯一の光となるのです。

この描写の間、あるパートがすべての断片を語ることはありません。男声・女声で別の人格が割り当てられているようです。声としては別人格を演じながら、曲としては他パートを聴いてハーモニーを揃える必要があるわけです。絶妙な距離感覚が問われます。

この距離感はどこからくるのでしょうか。照らされたそれぞれのこころを / 驚きをもって認め合う、とあります。これまで"僕たち"として同一視されてきたふたりが、別個の存在であるとわかるところまでズームインしてきました。

認め合うとは。認識でしょうか、それとも承認でしょうか。私は前者だと思っています。いっしょだったようにみえた"僕たち"は、実は一緒ではなかった。夜の魔法の力を借りて、少しづつ距離をつめていくなかで、こころの波長のほんのわずかな違いが、目に見えるほどになって現れたのです。
歌詞では平仮名で書かれていますが、驚きを以てというのがしっくりくる漢字表記かと思います。

拍子が3/4になると雰囲気は一変します。バスが叙述します。忘れないように / 息を止めて / 忘れないように / 君を見た。ここでは息を止めることについて語らねばならないでしょう。

息をすることは生命活動の根幹であることに加えて、部首が心であることから容易に想像できるように、中華思想においては思考・感情の源泉とも考えられてきました。またブレスが歌の原動力であることを我々はよく知っています。これを止めるとはなにを意味するのか。

仮死。思考の奔流。これをせきとめる。息を止めた瞬間、Con moto によって動いていた時間や感情の流れが止まって、少しだけ猶予を与えてくれるのでしょうか。ちょうどフェルマータのように。その間に忘れまいと君を見る。感づかれないように。君の形骸の向こうに何を見たのでしょうか。

歌詞は2度繰り返されますが、pfの色味は1度目と2度目で全く異なります。1度目はバスのリズムに遅れて追随する形。2回目では意思を持って転がり始めます。後に出てくる地球の自転のモティーフとつながりがあるとすれば、僕たちが地球の上に立っていることを示しているように思えます。

曲ではフレーズが原詩より長くなっているのも特徴です。フレーズの長さを生かして、息を止めることなく歌いたいものです。強弱は mp-mf ですが、囁くくらいで演りたいですね。これは完全に私の趣味です。

次の2重線では pf が重要な場面転換を行います。右手の高音は宇宙や星空のイメージです。月が沈んだのでしょう、暗闇は濃さを増し、空気は張り詰め、僕たちの影は希薄になり、かわりに空がはっきりと見渡せます。

この緊張を壊さないように「この時と / 今のこと」と入ります。時間軸上の異なる2点が同じ星空によってつながれ、"この時"と"今"の状況が異なることも暗示されます。pfの間奏の間、歌い手はどんどん視点を主観から離していきます。

61小節からは視点が宇宙になり、pfは自転する地球を描き始めます。浅学なもので、青い真珠ってなんじゃらほいと検索してみました。青真珠というのがあるそうで、思った以上に地球です。

(出典: http://cdns2.freepik.com/free-photo/blue-pearls_19-98727.jpg)

いただいたサポートは、記事の内容にのっとって使わせていただきます。具体的には楽譜を買ったり、基板を買ったり、抹茶を買ったりします。