卒論途中経過の雑感、カントについて

哲学専攻でぷらぷらと3年を過ごし、卒論でカントを選んだ。
今は「道徳形而上学の基礎づけ」を読んでいる。
元々私は行為の行動原理について興味があり、担当教員にカントを勧められた。そしてカントを読み、そこにはまさに知りたかったことが書いてあった。というのも、カントは利己的な意図や傾向性に基づく行為を断罪しているためだ。前者は、偽善という概念をイメージすると分かりやすい。例えば周囲に良く思われるという自己の利益を得たいがために、他者に親切をすることが挙げられる。後者は少し難しい概念だ。カントはそれを、感覚に基づく欲求能力と述べる。(以後説明を割愛!)
偉そうにカントの考えを述べたが、利己的な意図や傾向性に基づかない「それ自体で善い意志」など分からないことばかりなので、二次文献を頼りにテキスト分析をしている。しかし分からないなりに感動を受けてもいる。

まず自分の行動を理性に咎められるようになった。すぐ影響受ける中学生みたいだし、書く内容本当にしょぼいけどね。例えば未使用ティッシュやチューインガムの包みのようなごみを落としたら放置していたが、拾うようになった。自分がごみを放置し、それを普遍化すれば、そもそも町はゴミだらけなので、自分を例外化するべきではない…みたいに。あとは義務的に席を譲るようになった。合理的に考えて若くて体力のある自分が座るのはおかしい…みたいに。でも勇気が出なくて、見なかったふりをすることもある。そして心臓がドキドキして、次で降りてよかった…とか安心する。自分だけ何かを所有していたり、特権を得ているような事態に対して、咎められているような気持ちになることが増えた。

そしてもっとも衝撃を受けたのは、カントは幸福追求を目指すのではなく、幸福に値する人間になるように主張していること。御子柴善之訳「道徳形而上学の基礎付け」のpp.79-80 を参考にすると、以下のようなことが書いてある。

人間が幸福を望んでも、その概念は不明瞭である。なぜなら幸福の概念に属する要素はすべて経験的であるためだ。カントは経験によらないことで普遍性を持ち、誰にとっても当てはまる普遍的な道徳的善を構想した。

カントが言うには幸福の概念は人それぞれ(不明瞭)。富を得ても失えば不幸になり、健康や権力も同じだ。それらはせいぜい幸福の条件として助言できるだけ。

今回(追及されても出典を引き合いに出すなど)自信をもって書けるのはここまで。なぜならカント自身が構想した道徳的善についての理解が及んでいないから…☆