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陽が落ちる頃

川沿いに木々が連なっている。その樹冠はりっぱで、下に立つと分かるのだけれど、太陽の光を通さない。足元にはふかふかの雑草が生えていて、ベンチが置いてある。木の下から川の方へすこし踏み出すと、急に視界が開ける。左目の端から右目の端、その先まで、ゆらゆらと揺れ続ける川が映る。まだらに石が堆積しているところにはススキが生えていて、ちょっとした草むらのようになっている。川は浅瀬なので、水中に石橋が点在している。
コンクリの階段を下って川の前に立ち、石橋にジャンプする。そこに座って流れの中に足を入れ、時々水をすくっては、ぼーっとする。こういうことを10代の頃にしばしば行っていた。どういう時にそこへ来ていたのかはあまり覚えていないが、そうすると気持ちが落ち着いたのは確かだ。
対岸には中学校がある。向こうの川辺でススキの近くに隠れながら、体を寄せ合っていた中学生の男女を見たりもした。当時彼らは自分よりも年上だったので(全校生徒の人数が少ないので必然的にアイデンティティを把握!)進んでんなー/田舎にはデートスポットがないんだなー/今日はもう帰ろうーと思った。他には犬の散歩をしている人、川辺でバーベキューをしている家族、川で遊ぶ子どもなどを見てきた。今同じことをしたら、不審者扱いされるな

以前帰省した際、日暮れごろに犬と散歩をし川沿いを通った。空は紺色に近い紫色だった。音楽を聴きながら歩いていると、ある光景に目が釘付けになった。
木々の下に投げ出された数台の自転車。ベンチの上で肩を抱き寄り添い合う二つの影。彼らの視線の先には、いくつかの黒いシルエットが階段のあたりを走っているのが見える。
イヤホンを外して、少し立ち止まってからその場を去った。私はどうしようもなく泣けてきた。その一場面は、信じられないくらい綺麗だった(伝わらないかもしれないけれど、個人的な経験をそっくりそのまま伝えることはできなくて、言葉を介した別のイメージや読み手の想像に頼らなければなりません)。そのすべてが豊かに見えた。自転車をほっぽってまで友人と遊ぶのに夢中になることや、寄り添いながら黙ってお互いの存在を感じること。
そして彼らはスタンドバイミーのポスターのように、風景の中で匿名の影として溶け込んでいた。

たんに現実の美しさに感動するだけではなくて、自分の「持たなさ」を感じた。私は川原で走るような活動的な子供ではなかったし、むしろひとりで座っていた。恋への憧れはあったけれど、思春期の自分にとって恋や憧れや友人では言い表せない存在はリヴァーだったし(ただし彼がスタンドバイミーにクリス役で出ていなかったら、そう思うこともなかった)そういう自分の精神世界、現実との相違をずっと恥じていた。リヴァーに対する想いは自分だけの秘密にして、誰に対しても彼の名前すら口に出したくなかった。笑われたり否定されたくなかったから。(しかし今は少し違う。この一方通行の精神的な付き合いは、理解不能かつ思春期から現在までを形作る根源的なもので、これからもずっと付き合っていくのだと思う。)
以上の告白はたんなる事実であって、川沿いの子どもたちと対比した惨めさの表れでも、不幸自慢でもない。確かに自分は色々な経験を欠いてきたと思う。帰りたい青春時代とか思い浮かばないし。でもなんというか…うまく言えないけれど、自分と対比してしまいつつも、他者の人生の一部分を美しい形で垣間見れた素晴らしい体験だったので涙が出たんだと思う。

夏期講習が終わったので秋学期の授業が始まるまでまた地元に帰ることにした。明日あたり、また川沿いを通ってみるつもり。

「私には私にしか分からないことがあるんです」だからこそあなたにはあなたにしか分からないことがあって、わたしは簡単に「分かるよ」なんて言えない

しかし分からないなりに、好きな人たちや色々なひとのことを遠くから見つめていたいし、遠くから彼らのことを心に留めておきたい