客観的妥当性中毒の話


生きていると世の中の環境というのは常に移り変わるものですが、そんな中でも個人的意見というものをめちゃくちゃ軽視するメタというのがあります。
なんで個人的意見をめちゃくちゃ軽視するかというと、多分ですけど学校教育において意見の統一を行わなくてはならない際、「みんなで大縄跳びをやりましょう」「僕はドロケイをやりたいです」「たぬきくん、それは君の個人的意見でしょう?(皆の意見に従いなさい)」みたいな形で封殺され続けてきたことに由来するんじゃないかなと思うんですがどうですかね。まあ由来はともかく、そういう空気が発生することがあり、また個人の流行としても発生することがあります。

そういうのを発症(あえてこの単語を使いますが)している人は、自分の意見を言う時に「個人的意見ですが」みたいなのを言い訳のように付けてしまったりします。
そもそもあらゆる意見は個人的やろがいとぼくは思うんですが、私の個人的意見は雑魚で他人に聞かせるに堪えないゴミみたいなもんです、といったエクスキューズがそこに含まれているように思います。これは別に本人がそのように意図しているわけでなくとも発生し、むしろそういった意図がないにもかかわらず、それを前提として発されていることにこそ問題があるように思っています。

個人的意見の軽視は、たやすく自己否定へと結びつきます。自分が抱いた思いを全てそれだけで個人的意見だからな〜と軽視の箱に投げ込んでると、周囲の要請とかけ離れたところにあるものは全て軽視されることになってしまいます。
疲れたから休みたい、という当たり前の感覚も、「それは君の個人的な感想だろう。みな疲れても頑張っているんだ、君も頑張りたまえ」という圧力の前に屈します。そして、そう思ってしまう自分はなんで弱いんだろう……という自己否定へと向かうわけです。

一番やばいのは、そんな圧力が仮に存在しなかったとしても、架空の圧力に負けることがあるということです。
個人的意見はカスという価値観を是とすると、個人的な意見というだけで不戦敗になるからです。
こういう状況にある人のシグナルとして、「常識的に考えて無理でしょ!」みたいな声をあげていることが多いです。それはつまり、自分の感覚で是非を判断することができなくなっており、「常識的に考え」なければならなくなっている、客観視点における妥当性を欲して喘いでいる姿です。
今にも倒れそうな人間に客観的妥当性なんて必要ないのに……

というか今にも倒れそうではなくても人間に客観的妥当性は必要ありません。客観的妥当性が必要となるのは理屈として相手を納得させるような場であって、なんならそういう場でも主観的妥当性(お腹が空いて死にそうなんだよ〜パンくださいよ〜)とかでゴリ押すことができたりします。
それでも客観的妥当性を必要と思ってしまうのは、平時に自分がそういった主観的妥当性をはいはい個人的意見個人的意見、と切り捨てているから、いざというとき自分が客観的妥当性を提示できなかったら自分も切り捨てられてしまうのではないかと思ってしまうんではないかな。

じゃあどうすればいいかという話ですけど、単純に個人的意見をばかにするなというのじゃだめですかね?
他人の意見も自分の意見も、そう思ったという事実を軽視しないで、それじゃあどうしますかね、という折衷案を都度考えるようにしていくように。もちろん、無制限に他人の意見を受け入れなければならないということではなく、しっかりと客観的妥当性を加味しなければならないところではありますが、客観的妥当性という物差し一本で全てと戦おうとするのはいくらなんでも無理だろうと考えています。個人的な意見ですが(絶対やろうと思ってたこのオチ)

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