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忠臣蔵の日

まえがき

歴史が苦手な理由が上記noteのようにどうしても判然としないことが多いからだ。というか私となにかのプロトコルがおかしい。
これは暗黙に考かんがえてくれ。。。みたいなものが共有できていないのであろう。もちろん歴史ファンもいるのだから、おかしいのはどうやら私のほうである可能性が高いのだが・・・
今日はそんなところの了解がとれない部分を含めて忠臣蔵という事件について復讐 ならぬ 復習してみたいと思う。

仮名手本忠臣蔵

この仇討ち話が、詳細に国民に伝わった経緯は2段階ある
まずは、仮名手本忠臣蔵が書かれたことだ。これについては前回のnoteでも触れた。さらにもう一段階は、明治天皇である。
順を追ってまず見ていこう。

寛政三年(一七九一)に江戸中村座で初演された「仮名手本忠臣蔵」は、赤穂事件を題材としながらも、大胆な脚色と美化を施した浄瑠璃作品として歴史に名を残している。本作の特筆すべき点は、まず時代設定を元禄から室町時代、具体的には南北朝動乱期へと移行したことにある。この時代設定の変更により、当時の幕府への配慮を示しつつ、より劇的な物語展開を可能にしたのである。

登場人物についても、史実の浅野内匠頭を塩谷判官に、吉良上野介を高師直に、大石内蔵助を大星由良之助へと改変している。これは単なる名称変更に留まらず、各人物の性格付けにも大きな影響を与えた。特に高師直については、歌舞伎の「悪役」としての性格がより強調され、時代物の定番となる「悪代官」の原型を形作ることとなった。

本作の特徴として、武士の忠義や主従関係の理想化が挙げられる。特に注目すべきは、死に至る覚悟を持った武士たちの行動を、幕府への反逆ではなく、武士としての道を全うする崇高な行為として描いた点である。これは当時の江戸庶民の間で広く共感を呼び、「忠臣蔵」という物語が持つ普遍的な魅力の源泉となった。

しかし、この作品の影響力は、時として負の側面も生み出した。「仮名手本忠臣蔵」の大きな成功により、フィクションとしての脚色が史実と混同され、特に吉良家とその関係者に対する根強い偏見を生むこととなった。吉良家の家臣の墓が所在不明となったり、戒名が削られたりする事態すら発生したことは、創作物が現実社会に及ぼす影響の大きさを示す顕著な例といえよう。

吉良家の墓


つまり、仮名手本忠臣蔵では、別な人物(高師直)として描かれるように設定しても話の種の方に反応して、吉良家の家臣の墓にいたづらをする人がいたというから、びっくりだ。わかりやすく悪役に仕立てたのが仇となって、吉良上野介までもほんとうの悪人みたいな扱いである。もちろんたとえ悪人とて墓にいたづらしていいはずはない。

吉良上野介義央の墓所の変遷は、「仮名手本忠臣蔵」の影響を色濃く反映する歴史的な経緯を持っている。元禄十六年(一七〇三)の赤穂事件直後、上野介の遺体は江戸城半蔵門近くに位置していた萬昌寺に葬られた。

萬昌寺自体も、その後江戸の発展に伴い、市谷田町、筑土八幡町と移転を重ねることとなる。これらの移転の背景には、都市開発という表向きの理由の他に、「仮名手本忠臣蔵」の広まりによって生じた民衆感情への配慮があったとも考えられる。先述の通り、この浄瑠璃作品は吉良上野介をモデルとした高師直を悪役として描き、それが民衆の間に深く浸透していったためである。

大正時代に入り、寺は「萬昌院」と改称し、中野区上高田への移転を果たす。現在の正式名称は萬昌院功運寺となり、中野区上高田四丁目十四番一号に位置している。最寄り駅は西武線の新井薬師前駅である。

このような墓所の度重なる移転は、単なる都市計画上の要請だけでなく、「仮名手本忠臣蔵」によって形作られた民衆の歴史認識と、実在した吉良家の追悼の場という二つの側面の間で揺れ動いた日本文化史の一端を示している。

というよりも史実を裏付けにせず、物語をきいただけで感情が動き
行動に出たとするなら、まぁバカなのであろう。と私は思ってしまうのだが。。。逆にいうと文化の素晴らしさの裏返しなのであろう、と思い直して鉾を納めるのである。
それほど、とにかく仮名手本忠臣蔵は人気があったということである。

赤穂事件と「仮名手本忠臣蔵」の関係は、まことに不思議な様相を呈している。元禄十四年(一七〇一年)、徳川幕府の治世下で実際に起きた事件を、作者たちは室町時代という遥か昔の世界へと移し替えた。しかも登場人物の名前を、まるで証拠隠滅でもするかのごとく完全に書き換えている。吉良上野介は高師直に、浅野内匠頭は塩谷判官に、大石内蔵助は大星由良之助へと、いわば歴史的な「変装」を遂げたのである。

史実では、浅野内匠頭が江戸城松之廊下で吉良上野介を切りつけ、即日切腹、赤穂藩は改易という粛々とした事件であった。ところが「仮名手本忠臣蔵」では、どこぞの軍記物語のごとく、高師直なる男が塩谷判官の妻に横恋慕するという、いかにも時代劇らしい脚色を加えている。さらには、お軽と勘平という若い男女の恋愛を織り込むなど、まるで現代のテレビドラマの脚本家のような手際の良さである。

そもそも幕府の検閲を避けるために政治的な要素を薄めたとされるこの作品が、なぜか「忠臣蔵」という名称を生み出し、いろは四十七文字と赤穂浪士四十七人を重ね合わせるという、なんとも粋な趣向まで凝らしている。

ここで首を傾げざるを得ないのは、これほどまでに創作として脚色され、時代も人物も入れ替えられた物語なのに、なぜか実在の吉良上野介とその一族が、後世まで恨みを買い続けているという奇妙な事態である。これはまるで、シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」を見た観客が、実在のモンタギュー家を今でも敵視しているようなものではないか。

「仮名手本忠臣蔵」の影響力たるや、史実と創作の区別がつかなくなるほどの威力を持ったというが、これはある意味で江戸時代における「フェイクニュース」の威力を示す好例かもしれない。作者たちは必死に時代設定を変え、名前を変え、政治色を薄めようとしたのに、結局のところ、世間は「あれは吉良殿のことじゃ」と噂し続けたのである。

吉良家の方々からすれば、「いやいや、あれは高師直という別人格でございます」と主張したくなるところだが、世間の記憶というものは、時として創作よりも執念深いものなのかもしれない。これぞまさに、「仮名手本」ならぬ「因果物語」というべきか。

赤穂事件

ここでいったん、史実を確認しておこう。
赤穂事件の真相は、世に広く知られる「仮名手本忠臣蔵」の単純な勧善懲悪とは、まったく異なる様相を呈している。

元禄十四年(一七〇一年)三月十四日、江戸城松の廊下での刃傷事件は、確かに浅野内匠頭が吉良上野介を切りつけるという形で表面化した。この行為の背景には、老中の前で面子を潰されるような言葉を受けたという直接的な原因があったとされる。しかし、この事件の本質は、表面的な対立を遥かに超えた複雑な政治的背景を持っていたのである。

実は吉良上野介は、単なる幕府の役人ではなく、朝廷との連絡係として極めて重要な地位にあった。特に当時、将軍徳川綱吉が母・桂昌院を従一位にするため朝廷に働きかけていた時期であり、吉良は将軍の親戚筋でもあった。つまり、吉良は幕府と朝廷を結ぶ重要な懸け橋だったのである。

事件の状況も重要である。この刃傷沙汰は、朝廷の使者を接待している最中という、極めて不適切なタイミングで起きた。さらに、江戸城の重要な場所である松之廊下という、将軍の威厳に関わる場所での出来事であった。

幕府の対応も、法的には正当な根拠があった。吉良は浅野の攻撃時に脇差しに手をかけることなく逃げただけであり、これは「喧嘩」の定義から外れる行為だった。そのため、「喧嘩両成敗」の適用外とされたのである。

経済的な側面を見ても、事態はより複雑である。確かに赤穂藩と吉良家は、塩業を通じて深い関係性を持っていた。吉良家から塩の製法を教わった赤穂藩は、その技術を発展させ、将軍御用達となる栄誉を得た。これにより吉良家の塩の売り上げが落ち込んだとされるが、これも時代の流れの中での自然な経済発展と見ることもできる。

このように見てくると、浅野の行動は、自らの武士としての名誉を守るための行為であったかもしれないが、同時に幕府の重要な政策を危うくする重大な過失でもあった。将軍綱吉が浅野のみを厳しく処罰したのは、むしろ当然の判断だったとも言える。

しかし、なんとも皮肉なことに、後世の「仮名手本忠臣蔵」は、これらの複雑な政治的背景を完全に無視し、吉良上野介をモデルとした高師直を一方的な悪役として描いてしまった。これは歴史家の目から見れば、あまりにも乱暴な単純化と言わざるを得ない。

実際の吉良上野介は、幕府と朝廷の架け橋として重要な役割を担い、時代の要請に応えようとした一人の政治家であった。その生涯は、「仮名手本忠臣蔵」が描くような単純な善悪では到底語り尽くせないものだったのである。歴史の真実は、常により深く、より複雑な様相を帯びているのだ。

忠臣蔵の美化

私にはどうしても、忠臣蔵が美談とは到底思えないのだ。
どうして美化されているのか

赤穂事件の実態は、「仮名手本忠臣蔵」が描く義侠物語とは、根本的に異なる様相を呈していたのである。

まず注目すべきは、松の廊下での刃傷事件の実態である。浅野内匠頭は武士の作法に真っ向から反し、吉良上野介を背後から一方的に切りつけるという卑怯な行為に及んだ。これは、「仮名手本忠臣蔵」が描くような、正義の武士による果し合いとは、まったく異なる性質のものであった。吉良は、むしろ不意打ちの犠牲者だったと言えよう。

さらに興味深いのは、いわゆる「討ち入り」の真相である。この行動は、決して単純な忠義や仇討ちではなかった。実は赤穂藩家臣団の内部には、上方慚進派と江戸急進派という深刻な対立があり、その目的も大きく異なっていた。特筆すべきは、大石内蔵助が当初、討ち入りを避けようとしていた可能性が高いという点である。彼は家臣団の暴走を抑えるための方便として血判状に署名したとされる。これは、「忠臣蔵」が描く、忠義一筋の家老像とは、まったく異なる姿である。

最も驚くべきは、この事件が明治時代以降、国家によって意図的に美談化されていった過程である。明治元年(一八六八年)、明治天皇が泉岳寺に勅使を送り、この事件を「義挙」として公認したことで、忠君愛国の精神を象徴する物語として再構築されていった。後の軍国主義日本は、この創作された物語を「武士道の精華」として喧伝し、国民精神の支柱としたのである。

このように見てくると、吉良上野介は二重の意味で歴史の犠牲者であったと言える。一度目は浅野内匠頭による不意打ちの刃傷、二度目は後世による一方的な悪役としての位置づけである。実際の吉良は、幕府の重要な外交官として朝廷との関係を取り持つ立場にあり、むしろ当時の政治システムの要として機能していた人物だったのである。

歴史の真実は、常により複雑で、より人間的なものである。「仮名手本忠臣蔵」や明治以降の美談化された物語は、ある意味で歴史の重要な一面を覆い隠してしまったと言えるだろう。吉良上野介という一人の人物の評価も、このような歴史の複雑な文脈の中で、改めて見直される必要があるのではないだろうか。

明治政府による美化

明治維新という歴史の転換点において、「忠臣蔵」の物語が政治的に利用されていく過程は、実に興味深い様相を呈している。特に注目すべきは、明治元年、戊辰戦争の戦火がいまだ収まらぬ時期に行われた泉岳寺への勅使派遣という出来事である。

この政治的演出の背後には、岩倉具視や木戸孝允といった明治新政府の策謀家たちの周到な計算があった。わずか十六歳の明治天皇を、三千三百人もの大規模な行列とともに江戸に送り込むという前代未聞の政治ショーを演出したのである。その直後に行われた泉岳寺への勅使派遣は、まさに政治劇場の集大成であった。

ここで我々は、明治政府の巧妙な戦略に目を向けねばならない。彼らは「忠臣蔵」という、既に民衆の間で広く親しまれていた物語を、新しい国家体制を確立するための道具として利用したのである。赤穂浪士の「忠義」を讃えることは、すなわち天皇への忠誠を説くための格好の題材となった。

さらに注目すべきは、この行為が持つ多層的な政治的メッセージである。表向きは赤穂浪士の「義挙」を称える行為でありながら、その実、旧幕府への痛烈な批判を内包していた。かつての主君への忠義を貫いた浪士たちを称えることは、すなわち徳川幕府の正当性を否定することにもつながったのである。

この政治的演出の効果は絶大であった。「忠臣蔵」は、いつしか教科書に掲載される「国民の物語」へと変質していく。そして、その過程で歴史的事実は徐々に歪められ、都合の良い部分だけが強調されていった。軍国主義の時代には、「忠君愛国」の精神を象徴する物語として、さらなる政治的利用がなされたのである。

実に皮肉なことに、元禄期の複雑な政治的事件は、明治以降、単純な「忠義」の物語へと変質させられてしまった。吉良上野介は一方的な悪役として描かれ、浅野内匠頭の不法な暴力は正当化され、大石内蔵助らの政治的な思惑は美化された。これこそが、政府による歴史の改竄の典型例と言えよう。

我々は、このような歴史の歪曲に対して、常に批判的な眼差しを向け続けなければならない。なぜなら、真実の歴史は、権力者たちの都合の良い物語の中にではなく、むしろその陰に隠された複雑な人間模様の中にこそ存在するからである。「忠臣蔵」の美化された物語の陰で、私たちは本当の歴史をどれほど見失ってきたことだろうか。

あとがき

 日本の大衆文化における歴史認識の底の浅さについてである。「忠臣蔵」が大河ドラマ化されるたびに、我々は同じ轍を踏み続けているのではないか。

実に興味深いことに、どっかの公共放送が、明治政府によって創作された「忠義の物語」を、いまだに無批判に再生産し続けている。これは単なる時代劇の問題ではない。より本質的な、日本人の歴史認識の浅薄さを象徴する現象なのである。

考えてみれば滑稽なことだ。元禄期の複雑な政治的事件が、浅野内匠頭による卑劣な不意打ち、大石内蔵助ら家臣団の内部分裂、そして朝廷との関係という重要な外交上の危機を含んでいたにもかかわらず、いまだに「忠臣蔵」という美化された物語として消費され続けている。視聴者の反応も私にとっては驚きである。まさに明治政府が意図した「忠君愛国」の教育の成果と言えるのではないか。

さらに皮肉なことに、このような歴史認識の歪みは、年末の「忠臣蔵」時代劇や大河ドラマを通じて、世代を超えて継承されている。これはある意味で、明治政府が仕掛けた歴史教育の成功を物語っているとも言えよう。

我々は、いつまでこのような歴史の消費を続けるのだろうか。本来、公共放送は史実に基づいた冷静な歴史解釈を提示する責任があるはずだ。しかし、視聴率という数字に縛られ、安易な「義理と人情」の物語に逃避している現状は、まさに「民度」を表す鏡となっているのではないか。

歴史とは、このような単純な善悪の物語ではない。むしろ、複雑な人間の営みの集積であり、そこには様々な立場の人々の思惑が交錯している。真の歴史教養とは、このような複雑性を理解し、多角的な視点から事象を捉える力にあるはずだ。と息巻いたところで、どうしようもない。
テレビなんか見ないに限るというだけである。
次回は、大河ドラマがどのように史実を扱ってきたのか確認してみようかと思ったがバカバカしいので他の題材も視野に検討する。このあたりで忠臣蔵を美化するのはやめにしたらよいし、この記念日的な扱いもさっさとやめればいいと思うだけである。

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