見出し画像

鏡開き

食積(くいつみ)というものがある。蓬莱飾りといって、三方といわれる飾器の上に飯や乾干物を乗せる。蓬莱山というのはいわゆる仙人の住む理想郷であり、浦島伝説の玉手箱を登場させる心象風景の背景ともいえる。ある人は、蓬莱山とは富士山であるといったりしたが、もともとは神仙の思想で中国から来たものである。鏡餅もこの蓬莱山を模している。ということは、つまりは長生きを祈願したものでもある。”切る”を忌嫌して、開くとしたのは江戸時代の武士の文化である。いずれにせよ一が多になる。

-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-

ウイリアム・ジェイムズの誕生日である。プラグマティストと知られる彼は、「意識の流れ」について考察した心理学者・哲学者である。
意識の流れというワードでベルグソンを想起する人もいるだろうし、事実彼らは交流していた。そしてともに、経験論や合理論といった見方を否定して、経験を意識の流れをもとに再構成しようとした方向も一致しているといえよう。つまりは、真の経験論とベルグソンがいったものが、ウイリアム・ジェイムズによれば根本経験論というわけである。さらに一致しているものとして、「生命は知性を超える、されど経験は超えず」という反主知論である。私から見ると考える言語が違うために(ベルグソンはフランス語、シェイムズは英語)多少の相違があるような気もするが、それは当然そうなのだろうし、また人によって考え方が違うという取り立ててどうということもない結論しかこのままだと出てこない。そこで今日は、ちょっと整理してみようと思う。
 ジェイムズは経験は同一の自我の中で、複数の経験が時間的に現れる経験があるという、その直接与えられるものを額面どおりに受け取ろうという姿勢がある。これは、ベルグソンが「意識によって直接与えられるもの(邦題:時間と持続)」に対する考察もそのとおりである。つまり、音楽を考えるときには、リズムや音の連鎖について当然考えないといけない、音をひとつひとつ取り上げてはならないと言っいるのと全く同じことである。
ジェイムズが、”もし真の時間がちょうど時間についての私達の知覚が脈動によって発展していくように一定量の持続の諸単位によって発芽し発展するならば、私達を困らせるゼノンのパラドックスやカントのアンチノミーはなかっただろう。[...] 私達の感覚的経験はしずくの形で私達に生じる。時間そのものはしずくの形で生じる”といっているは象徴的である。
つまりこれは、ベルグソンが”質的多性”と呼んだ持続の概念で、互いに融合し浸透し繋がることによって組織化される。持続は一瞬ごとにその質を変化させ続け決して同じ状態にとどまり続けることはないという”純粋持続”の考え方とかなり類似しているのである。

Selon James, le présent que nous percevons possède une certaine étendue : c’est ce « présent apparent » (specious présent) qui est la seule donnée immédiate. Du présent proprement dit (instant limite séparant le passé de l’avenir) nous n’avons pas la perception. C’est une pure abstraction dont « seule la réflexion nous convainc qu’il doit exister »  
Cette durée, qui est donc l’unité de perception du temps, est située entre deux limites, l’une en avant l’autre en arrière, perçues simultanément dans le bloc de durée (duration block) qu’elles déterminent : « Lorsque nous percevons une succession, nous ne percevons pas un avant et un après, et nous n’en inférons pas l’existence d’un intervalle de temps entre l’avant et l’après, nous percevons l’intervalle comme un tout. »
L’expérience de la durée est donc toujours une donnée synthétique et non une donnée simple

ジェイムズもベルグソンも、経験が単純に単体で取り上げてはならず、経験の流れの中で捉えなければならないといっているのである。しかしある専門家はその経験どうしの相互の関係について、両者に差異が見られるなんてことをいう。

  ジャンケレビッチは、ベルグソンの純粋持続は”全体の全体への内在”という、すなわち、全体から規定され同時に全体を反映してもいるさまを示すといった。合理論と経験論というレトロスペクティブを考えてみると、経験論がパッチワークのように経験を多数の心理状態の総和として捉えるために自我を捉えるのに失敗して、合理論はそこにおいてなおも自我に固執して、絶対的に未規定で空虚なるものを捏造してしまう。とにかくベルグソンのいう個々の意識は全体の中の一部として初めて意味を持つものである。これに対してジェイムズの各意識の塊の連携は、”部分どうしの関係を連接的経験として、それによって関係づけられる経験として実在的なものの内に数えれる”として、ベルグソンよりもやや疎であるという。
しかしながら、私見では、これは考え方のちがいというよりも、むしろ経験を仔細に観察するときのフェーズと視点のちがいでしかないような気がする。全体っていうのがどこまでなのか、そのパースペクティブによる違いで、直前の経験とか(その経験もその前の経験を含むのであるが)にとりあえず目を向けるときがジェイムズで、もっと一般化して捉えて書いたのがベルグソンというように感じる。(また来年論じよう)

-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-
 鏡を開くといっても切るといっても、ただ供えたものを食べるにほかならない。丸くした餅を銅鏡に見立てると同様、酒の蓋をも鏡という。いずれも歳神の居場所であるからして、割るのでなく開くのだ。酒でも米でもまったく同じ意義の行為に見える。。。
 しかしながら、どんなものにも違った見方もやはりあるのである。鏡餅は、水神=蛇神を表す。鏡(かがみ)の”かが”はすなわち蛇であり、太陽神の交代(書き換え)が行われたとき、国つ神である古き神々=蛇たちは、ことごとく、この世から鏡の中に封じられたという。そして、スサノオの尊は、これに封じそこなった流浪の神であり、これが鬼にもなっていく。追儺式は、分身である鏡餅を取り返そうとやってくる蛇=鬼を追い払う豆まきの儀式と連携があるである。つまり鏡を開く槌で割るのは災難を避けるという行為であるという。

スクリーンショット 2021-01-10 20.29.01

 これとても、太陽暦採用により、文化の違いとなって表層としてなったにすぎず、本朝では、立春と節分を分断させたから起きる差異にほかならない。お節(せち)は節分だから食べられているのであり、鏡餅に飾る食積の別名にほかならない。文脈を分断すればそれぞれの表層であるが、意識は連接的である。
いずれにしても災難を排除し健康を祈願して行う一連の文化にほかならないのである。
節分が2月で正月と別に扱うから分断されているようにみえるだけである。

------------------------------------------------
<来年の宿題>
・ウイリアム・ジェイムズの心理学
------------------------------------------------

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?