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ごみゼロの日

ごみゼロの日ということだ。(語呂合わせ)
ゴミとはなんだろか。。。

Les ordures déboulèrent de la boîte métallique et churent en trombe dans la poubelle, coquilles d'oeufs, trognons, papiers graisseux, épluchures.
(レイモン・クノー 「ルイユから遠くはなれて」より)

フランス語でゴミは ordure    (...Chose inutilisable, sale, dont on se débarrasse.)
・不要なもの ・とっておくと害になるもの、
・余計なもの ・老廃物  ・片付けられるべきもの
何をもって要不要を判断するかは、人による。
何をもって害か有益を判断するかも人による。

 余剰なものがあると保管や整理にコストがかかる。
物が多いと、いちいち、必要なものを探し出すのに時間がかかる。
ミスやロスも増える。だから、捨てればいい。そして、ものを増やさなければよい。

同じ論理は思考におよぶ。
雑念があるといちいち悩む。これも人生のロスになる。
だから捨ててしまえばよい。ところで雑念は欲からくる。
さらば欲も断てばよい。

同じ論理は健康におよぶ。
過剰に摂取すると内蔵が疲れる、疲れると本来の力を発揮しないし、
老廃物を体に蓄積しないように、運動や腸活で老廃物を身体から追い出し、
きれいな状態を保とう。だから過食しない、加えて新陳代謝をしっかり。
 
  さて、ゴミがコスト高で時間の浪費につながることは、わかった。
では、捨てる先はいったいどこだろう。庭にまく?焼却炉?ゴミ捨て場?海?山奥?火星?・・・・
 排出するディスティネーションを考えると、内と外を分ける概念がでてくる。家庭内では断捨離。パプリックではリサイクル(再利用(お!これぞ逆転の発想))
 内と外を分ける概念がでてくる。家庭内では断捨離。パプリックではリサイクル(再利用(お!これぞ逆転の発想))

ここで過去記事を参照してみよう
2009年3月3日の記事である。

専門家に笑われてしまうのではないか
そのことを いつも気にする癖がある
(ということをこのブログでも体制病と題して書いた)
たとえばラーメンが好きで
いままで100軒くらい食べ歩きをしたが
世の中には1000軒くらい食べる人もいるよな
といって 自嘲してしまう
でも 大事なのは経験でも知識でもないかもしれぬ
フッサール風にいえば 「ラーメンそれ自体へ」ということだろうか
(ラーメン というノエマに純粋にノエシスしていることではないか
大量にまわるよりもラーメン店の未来把持ができれば 
それでいいのかもしれない)
自分には どうも アクションよりもプランが好きなところがあって
認識の仕方や誤謬の是正の方法は
いまやググることになっている 
大量のデータはすでにWEB上にそろっている
専門家よりもデータマイニングが 
経済的社会的には妥当な結論を示唆してくれる時代(とき)が
きているというのに
それでも
なかなかアクションしない
プランを立てると終わった気になり興味がなくなる
旅行なんかも いく前日までが一番楽しい
正月よりも大晦日といったところか

でも正月がこないと世の人々はおこるだろう!
サルトルが社会とアンガージュマンしたかった理由とは
もっと俗な形だが
それでも 自分が
社会に貢献することに対する意味を感じ始めている

アクションするのは自分自身であり、
それ自体に 作業するということ自体に意義がある
そこで始めて社会との関係がはじまる

そう思えるようになったのは モラトリアムから抜け出て
はやくも20年が過ぎ去ったからであろう
プランとアクションの両方のバランスをとりながら
楽しんで生きていきたい

    過去記事は”自己参照もの”になっている、プラン偏重になっていること、アクション不足を、嘆いているのだが、厳しいことをいうなら、アクションした結果を報告すべきであろう。案の定、十分にアクションしたとは言えないのである。
(ん?↑の文も無駄だな。あーあ、またゴミを排出してしまった)

今年の3月、東方神起の元メンバーの준수(ジュンス)が、ゴミ拾いチャレンジに参加した。

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(写真提供:sportsseoulweb.jp)

こうした活動に対して、偽善だとか、プロパガンダだろうとか口では簡単に言えるのである。なぜ簡単にいえるのか、それは、過去記事の嘆きのように、”言うは易く行うは難し”というわけではない。
私見だが、そもそも善意のほとんどは偽善なのである。ある人から見れば大きなお世話なことである。ことさらに、お手伝いしましょうか、みたいに言うこと自体が、少し歪なある種の恣意性を強いる。簡単にいうと恩の押し売りみたいな・・・・。
Green BirdというNPO法人がある。緑のジャケットを着用して街の清掃をする若者が集う。2003年から活動を日本で始めているが、2007年からパリでも活動するようになった。

Initié par de jeunes Japonais soucieux de la propreté de leurs rues, ils ont comme ambitions de faire prendre conscience à la population de la réjouissance de se promener dans des lieux propres et de l’importance du respect de l’environnement. Le mouvement à tout d’abord pris racine au Japon.
抄訳)街の清潔さを気遣う日本の若者たちが始めた。彼らの野心は、人々に清潔な場所を歩く喜びと環境を尊重することの重要性を意識させることです。この運動は最初に日本で定着した。

Pour la présidente de Green Bird Paris, sensibiliser les petits Parisiens aux bons gestes dès le plus jeune âge pourrait être une piste. « Au Japon, il y a une éducation à la propreté dès l'école et cela a un effet sur les mentalités, rappelle Yushiko Inaï. Ce que je trouve dommage à Paris, c'est qu'on paye beaucoup d'impôts pour la propreté alors qu'il suffirait que chacun et chacune fasse un petit effort en plus. Peut-être que dans dix ans, ça ira mieux… »
グリーン・バードのパリの責任者によれば、よい行動を小さいときから身につけることをパリの子供に気づかせることは一つの道かもしれない。
「日本では、学校は自分たちで掃除します。そのことがメンタリティに影響を与えるのです。Yushiko Inaï.はこうふり返る。パリをみて残念に思います、みんなが少しずつ清掃するだけで、清掃にかかっている税金は減らせるのに。おそらく10年くらいすれば良くなるでしょう」

 この記事を読んで、私の第一声は、よい(=bon)行動とは誰基準なんだろう? なんでパリが残念だと思われなきゃならないんだ! 私には日本の小学校が掃除するのも美徳なんかじゃなく、躾という軍隊発想みたいに思える、それは言い過ぎでも、少なくとも絶対善なんかないだろう、なんで押し付けるんだ、しかも10年くらいすればよくなるだろうなんて、大きなお世話だ、なんで上からなんだよ!ということだった。
 しかし、このゴミを拾う活動は、パリでの賛同を呼びこんで続けられている。

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 この事実を知ったときに、自分は少し驚いた。そして、自分のアクションを止めているものが、なんであるかが、少しだが、わかった気がする。
 人が人と関わるときに主義が合わないといけないとか、ただ自分は行動する前に勝手に悩みを捏造しているだけなのである。所詮、完全知なんてないのだ。(んー これも無駄な文だな・・・ゴミが増えた。)
 実は絶対善なんか存在しないから、さっさと行動しました!みたいなことを書かないといけないな。
あ!そういえば、、、今日は家の中のゴミをゴミ捨て場に持っていきました。ん?・・・ごみゼロの日か、んじゃ、本当はゴミ出しちゃいけなかったのかもしれないな・・・・・
 ゴミのでない生活? エコバックを使って、包装してあるものは買えないし、、、、生ゴミは肥料にして、紙ゴミは・・・ビニールは・・・うぅ。
じゃあ 読者の方々には申し訳ないが、ゴミは捨てずに駄文もそのままにしておこう。

 私の幼少期には、街路にゴミもよく見かけたし、暗渠にはおそらく不法に投棄されたものが散乱していて臭いもきつかった。溝には汚水も流れていた。それにひきかえ、昨今は実に街はこざっぱりしていると思う。人との関わりも実にドライにクールになった、どてらい男もコンプライアンスで一掃されている。私個人としては、実にいい世の中になったと思う。
ただ、人間、生きていけばゴミも出す、汚物も出す。量の多少はあれど生きることは汚しているという業(カルマ)がある。いまや暗渠は蓋をされて、街路樹は整えられ、たばこの吸い殻を外で捨てようもんなら奇人扱いされるようになったが、みえなくなったからといって、自分たちは、きれいに生きていますと思うのは思い上がりだ。たとえ、障害やゴミや芥や塵芥にまみれようと、力強く生きる姿勢みたいな、清濁併せ呑むような気概は忘れないようにしたい。

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