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今日は花火の日

花火の日は、旧暦の5月28日である。
過去の私のブログでは、日本はほかのアジア諸国と同様に旧暦を採用すべきだったと繰り返し書いている。
理由としては、
季節感がズレている。
 今はまだ旧暦だと4月である。しかも閏の4月なのである。花火って季節じゃないな。。。今年の場合旧暦5月28日は、新暦でいうと7月18日だ。もう一つ例をあげれば、立春は昔の正月である。まだ寒いのに暦の上では春だと言い張るのは、さすがにやせ我慢だろ!って思うのだ。
日本の伝統・習慣が旧暦で実施されてきた
 
明治政府が何を企んだのか知らないが、行事すべてを廃止しようと思ったわけではないなら、改悪としか言いようがないではないか。。。それに、西欧諸国と足並みだけでも揃えたいというイミフな理由なら、ガラパゴスとか云われている昨今のありようはまさに失敗ではないのか。。。
 といった、ある意味ではひねくれた理由なのだが、ひねたものの見方だと、捨て去るものでもない気もしている。現に今日も隅田川の花火大会までまで随分先なのに、その開催を記念した日ということで、季節感のズレた話題でブログを書いているのである。
 

過去記事を引用してみよう
2011年1月27日のブログである。

国の借金がまた膨らむ
997兆円とのことだ
消費税を9%にすると2020年には
黒字化するという試算もあいまって
増税はもはや 避けられないであろう。
えらいお役人が雁首そろえても解決できない問題があるということであろう
ある程度諦観はしている

自分の妹は田舎に嫁いだ
となりのおばさんから
メールが届いたときの話をきいたことがある
「雨が降ってきたので・・・
洗濯物を・・・」
そこまで読んで、よく知らせてくれた
じゃあ急いで家に帰らなければと
おもってその先を読むと
「洗濯物を取り込んでおきました・・・」
ええっ!?うちに入ったんだ・・
田舎はいまだに鍵はかけない
セコムのような安全を確保する都会的サービスも
街自体が自警団のような社会では儲かるのだろうか
妹はプライベートがないことをうらみながらも
田舎では食費がだいぶ浮いていることや
隣近所に 子供を預けられるのでずいぶん楽(らく)したことを
よく話す
昔を懐かしむわけではないが、
実家といわれる家があった
よく人が訪ねてくる 
”おばあちゃんち”である
おばあちゃんは、お菓子を買ったことがないという
尋ねてきた人がなにかしらもってくるからである。
自分が実家にいくとそのお菓子を出してくれる
贈与論なんかを文化人類学でならった気がするが
それは未開の国のことであったが、
意外と身近なところにあるという感覚だ
しかし これが過去形に変わりつつある
たとえば
子供は共同体で育てるものである
そもそも核家族では育てられないという感触だが
どうだろうか
隣に住む人の顔も知らない都会では
子供を預けることは不可能であろう
実家に 1人居候が転がりこんでも
なんとかやっていける
でも
都会の核家族に1人増えただけで
もういけなくなる
どちらが経済力があるといえるだろうか
お金があることだけが豊かさではないであろうし、
右肩あがりの経済は 少子化の現代ではもはや幻想であろう
その矛盾を解決しようとして国債が発行されているのであれば
哲学がなさすぎではないだろうか
経済にも哲学が必要だ
と豪語するような知識は持ち合わせてはいないが
懐古趣味は自由であろう
しがらみが嫌でも それを包含して人生はある
”もの”が大量に販売しても売れない今、
都会的なサービスを支える社会をつくりあげるのには
安い労働力が必要だ。
植民地をつくることしか資本主義は解決がいかないのであれば
しがらみと
実家機能を復活させることのほうが自然な解決方法ではないだろうか
それが今の感覚とは ずれてしまっている問題もあるが
少なくとも子供手当ては ずれの度合いがひどい
といっても それは哲学からくるものではなく
選挙のための手段なのだから 議論してもつまらないのだが・・・
結局 人間の根っこを考えないと
国は滅んでいくのであろう
古代ギリシャも 都市国家の頭でっかちな社会になって滅びた
今のギリシャは国が詐欺にかかった
詭弁を弄してやられた
大前研一のように 日本を出よといわない
日本のよさ 互酬的なしがらみは
もし嫌がられたならば それは必要悪ではなかろうか
逆にそうすれば 生きていけるのではないだろうか
と思っている

 当時は大前研一なんて読んでいたんかな・・・まったく記憶の中にない。
つまり、実りある読書ではなかったわけだ。その代わり、大学時代に読んだ本はいまだに覚えている。それは、学生時代の読書の重要性も思い知るというより、やはり興味の方向や読み方の違いがあるのであろうとは思う。
 蕩尽という概念について、過去記事はいいたいのであろうが、これはバタイユの「呪われた部分」を読んだ経験が下敷きになっている。この本はのちに「全般経済学試論ー蕩尽」と邦訳の方は改題されている(完全に改悪であると思う)
 バタイユがこの本を執筆している頃、ドーバー海峡を挟んだ向こう側ではケインズが経済の一般理論について考察していた。今から80年前の話で、ケインズは100年後の人間の1日に3時間ほどになるであろうと予測し、”需要の不足”を説いたのだ。
 この予測は残念ながら外れていると思う。(私見なのだが、AIが進んでどんなに労働時間が短縮したとしても、人間の本質として需要は増え続けるのだと考える。)それとは対称的に、バタイユが示したことは”供給の過剰”であった。

Cette introduction théorique comprend deux sections. Dans la première, intitulée "Le sens de l'économie générale", Bataille décrit la science économique comme procédant en isolant le système qu'elle étudie. Mais celui-ci ne devrait-il pas être étudié à l'intérieur d'un ensemble plus vaste ? Les êtres vivants reçoivent généralement plus d'énergie qu'ils n'en ont besoin pour leur survie : « l'énergie solaire est le principe de son développement exubérant ». Cet excédant peut leur servir à croître, mais quand la croissance de l'individu et du groupe n'est plus possible il devient nécessaire de le dépenser sans profit. Ainsi la question essentielle de l'économie générale est la question du luxe.
抄訳)バタイユの著作の序文は2つのセクションに分かれている、1つめが
「一般経済学の意味」である。バタイユはその研究が孤立したシステムを考察しているとし、もっと普遍的な何かを捉えるべきだとした。生物は通常、生存に必要なエネルギーよりも多くのエネルギーを受け取る。「太陽エネルギーは、その豊かな発展の源である」。この過剰は成長させるのに役立ち、個人やグループの交流に際し、成長が不可能な場合には利益なしで消費する必要がある。一般的な経済の本質的な問題は”贅沢”の問題なのである。

La deuxième section est intitulée "Lois de l'économie générale". À partir de l'exemple du veau, Bataille pose d'abord que tout organisme dispose de plus d'énergie qu'il n'en est nécessaire au fonctionnement de la vie, d'où la croissance et la reproduction. Seule la limite à la croissance rend possible la dilapidation de l'excédent d'énergie. Or c'est la grandeur de l'espace terrestre qui limite la croissance globale. La pression de la vie se fait à cette limite et se manifeste dans plusieurs effets : d'abord l'extension (illustrée avec l'arène de corrida surpeuplée), puis la dilapidation ou le luxe, qui prend trois formes distinctes : la manducation (certaines espèces en mangent d'autres), la mort et la reproduction sexuée. La technique permet à l'homme d'augmenter ses réserves d'énergie, mais elle occasionne des dilapidations plus grandes, comme les guerres, malgré l'augmentation du niveau de vie (donc de luxe). Cependant, ces deux aspects sont vus comme une double malédiction, d'où le refus de la guerre et le refus de reconnaître que l'augmentation du niveau de vie est luxe. Ainsi la dilapidation est source d'angoisse, parce qu'elle n'est pas reconnue comme loi fondamentale de l'économie générale. D'où la nécessité d'opérer la destruction de cette part maudite consciemment. Les parties suivantes étudient différents types de formes historiques et leurs manières d'opérer cette destruction.
抄訳)2つめは「一般経済の法則」である。。。(中略)。。。。
浪費(dilapidation)は一般経済の基本法則として認識されていないため、不安の原因となる。したがって、この呪われた部分を意識的に破壊する必要がある。以下の項で、その歴史的形態とその破壊の仕方を示す。

 バタイユは過剰な消費こそ、人間の経済の根本であるという。いまは、資本主義経済に目を覆われ頭の中を洗われてしまって、浪費よりはとんでもないことで、倹約こそが美徳くらいになっているのが常識で、蕩尽する習慣が特異なものになってしまったから過剰こそ経済の根本だという思想は理解しにくいというだけのことである。
 実家という権能をもった家では、贈与は当たり前の生活習慣であり、また祝祭としての蕩尽もまだ残っているのを世代を超えたところでは耳にする。酒屋でバイトした経験があるのだが、そこの店長のお父さんは大晦日になると金庫のお金をすべて使いつくそうとするので、金庫を店長のお母さんが隠すのが年末の行事だときいた。隠すのに失敗したときには店長のお父さんは箱根で芸者をあげたりするそうである。
 過去記事では議論を避けて、「経済にも哲学が必要だと豪語するような知識は持ち合わせてはいないが懐古趣味は自由であろう」と逃げているが、
それは資本主義に席巻されている現代を慮ったにすぎない。現代で問題視されている貧富の格差であるが、これは実は解決は簡単で、すべて余剰資産は没収してしまえばいいだけのことである。未開民族での祝祭はまさに蕩尽の機能だ。レヴィ・ストロースが悲しき熱帯でかいた文明を拒否した部族にとってみれば、資本主義なぞ悪魔であろう。もしかしたら、店長のお父さんがやった蕩尽は日本にも集団生活での機能を果たそうとして表出しているだけなのかもしれない。
 江戸のフォルマリズムは”宵越しの銭は持たない”であった。何ヶ月分かの給料ほどの値段を払っても初鰹を手に入れようとした。そうした江戸の文化にはこの蕩尽する消費を中心とした経済学が根底にあるのかもしれない。宵越しの銭は持たないを実践すれば、お正月はみんな貯蓄ゼロからスタートするのだ。さすればおのずと貧富の差は解消されるというわけだ。

 話をもどそう、花火である。 
 花火こそは浪費の象徴でもある。一瞬の間に大量の火薬が次々と破裂し夜空を彩る。まさに蕩尽そのものだ。人々が夜空に観るのは、心の浄化である。一瞬で消え去るからまた風情が増すのである。
 バタイユはまた、資本主義においては「有用性に取り憑かれて、役に立つことばかりを重宝しすぎる傾向」があるという。
 花火は有用であるかといわれると、どちらかというと無用なものではないだろうか。花火をあげたから病気が治るのでもなければ、貯蓄が増えるわけでもない。腹も満たされるわけではあるまい。
 1733年(亨保18年)旧暦の5月28日にあげた花火は、全国的に凶作で大飢饉となり、コレラが流行してたくさん死者がでた。その慰霊を込めて実施されたのが始まりである。
 それに引き換え、今年の隅田川の花火は感染症の流行のせいで中止が決まっている。。。。
 古来 日本人は人生が苦しいのは百も承知で、そのときその時の行事をこなすことを塚として、生きてきた。その行事は必ず旧暦にしたがっていた、暦は今日を生きる羅針盤だったのである。ズレた羅針盤をもった現代は、まがった骨格をもった身体と同じような覚悟が必要であると思う。
 過去記事では互酬性に帰着してしまっているが、もう一歩踏み込んで、人間の生の意味を問い直してもよいのかもしれない。AIの社会が現実的になってきた現代、重要なテーゼをバタイユは語ってくれているようにも思えるのである。


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