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江川の日

ちょっと面食らう題名かもしれない。
今日は世界TVデー。国連で世界テレビ・フォーラムの第一回が開催された日であるし、インターネットの公開実験が成功した日でもある。1969年11月21日のことである。インターネットの元型のARPAネットでカルフォルニア大学ロサンゼルス校、スタンフォード研究所、カルフォルニア大学サンタバーバラ校、ユタ大学の4箇所がつながった。インターネット記念日となっている。その後約30年を経て世界中のメディアが革命的な変革を迎えるのである。

 さて、1978年の11月21日、江川卓はTVを賑わせた。稀代のスーパースターでかつ悪役(ヒール)の登場である。悪役と書いたそばからひっくり返すと、悪役なのは巨人であって、江川卓ではない。巨人で野球がしたい。少年の夢を大事にするなら、あたりまえの逆指名である。マスコミの共同戦線で江川を悪者にしようと決めただけのことである。しかし、今度はマスコミの肩を持てば、スーパースターにも悪役の要素が充分にあった。
 そもそも、怪物といわれた江川自身、野球に打ち込み憧れて巨人に入りたいという美談とは程遠い。野球は一人でできるものと考えていた。それもそのはず、作新学院ではノーヒットノーラン9回、完全試合2回・・・江川が抑えて1点でもとれば野球は勝ちなのだ。春の甲子園では奪三振記録を樹立、野手は江川が失敗して打たれたときだけ仕事すりゃいいのだ。野球は一人でできると思ってもしかたがない。
 1回目のドラフト会議は不調に終わった。マスコミは心痛な面持ちの江川の絵が欲しかった。しかし、江川はあっけらかん。
 「プロへは全く行く気がなかったので、阪急から指名されたといっても関係ありませんよ。だからスカウトの方にも会うつもりはありません。出来ればセ・リーグの球団。それも巨人に指名されて断りたかった」
とのたまう。
 2回めのドラフト会議は惜しかった。巨人に行くチャンスはすぐそこにあった。クラウンライターライオンズが一番クジを引き当てた。巨人が引いたのが二番、実はこの時点でクラウンが江川を指名しなければ、巨人が指名すれば良い。阪急を断った江川に球団側は及び腰で、一位指名をしても断られたらほかの選手も取り逃がしてしまう。実はこのときクラウンは西南高校の門田を一位指名するつもりであったが、くじ引きが終わり昼休みに巨人側が暗躍する。江川を指名しなければ、王以外なら誰でもトレードに出すという条件をちらつかせる。”なにがなんでも江川”ということが伝わるエピソードだ。そして、作新学院の理事長であり、政治家の船田某氏が突然出てきて、要らぬ口を出した。政治家のご登場に、パ・リーグコミッショナーの堪忍袋の尾が切れた。逆に反骨精神がムクムクと湧き上がる。江川を指名しろ!そうでないと政治にスポーツが屈したことになる!クラウンは非情にも江川を一位指名した。そして、予想通り「今回は見送らせていただく」とコメントをもらうのである。マスコミははしゃぐ。ざまぁみろ!というわけである。マスコミにとってドラフト会議が正義だ。指名されていかないなんて、自分勝手だと書き立てる。この頃はまだ、そんな時代なのである。個人主義なんて受け入れられるほどマスコミは頭が良くなかった。それに”いろんな方々”(=船田某の秘書の蓮実氏)から、”なにがなんでも巨人”と伝えられた。”なにがなんでも江川”という巨人との狭間(しがらみ)で、江川はそういった勢力に圧されアメリカ野球留学にいかされる。
 「たかが野球、されど野球」。江川が口にした名言だ。そもそも野球なんて好きではないのだ。ただ、江川は最後まで球速が落ちないピッチャー、高めで三振をとるピッチャーという姿にはこだわった。だから7回くらいにはわざと手抜きをする。試合の結果なんて、監督にまかせとけばよい。本気でそう思っていた。自分が勝利を導くんだなんて気概はくだらぬ。
自分は9回の締めくくりに最後のバッターを三振で打ち取る。そのことだけ頭に描き、心に刻んでマウンドにあがった。そんな野球?・・・それを長嶋茂雄は歓迎した。監督業なんてスター長嶋にとってはつまらぬもの。ドラマ性をどうしても欲しがった。自分が1塁にいるなら2塁、2塁にいったら3塁に走る。3塁にいったら当然誰が何をいおうがホームスチール。スリルとドキドキがなければ野球たり得ないというか、つまらない。監督自身がそんなイメージの持ち主だった。サインなどみなくていいんだ。どうでもいい。
 だから長島は、肩が壊れようが何がなんでも江川をバンバン登板させた。江川は高めの剛速球を投げる。バッターはその球威に圧され、キャッチャーミットに吸い込まれる。そんなイメージだけを頭に浮かべマウンドに上がった。ベンチが低めに要求しても、そんなの知らない。つまらない。それでは野球になっちまう。っていうか好きじゃない。引退するときも、マウンドにこだわったわけではない。高めで打ち取れる球威がなくなって、つまらなくなったからだ。
 ふざけんじゃない。野球ファンでなくてもそう感じるかもしれない。実際巨人ファンの中にもアンチ江川がいたくらいだ。しかし、それをも黙らせるほどの球を江川は投げた。ふつうの投手は初速、つまりボールが手から離れるときの速度が一番速く、終速、キャッチャーの手元にくるときには多少スピードが落ちるが、江川の球は終速も速かった。これがバッターにはボールが浮き上がるように見え、思わずバットを振ってしまう。タイミングが合わずボールはキャッチャーミットに吸い込まれる。まさに魔球だ。江川にはこの魔球と時間つぶしのカーブしか球種がない。野球のセオリーからいえばスライダーやチェンジアップを織り交ぜるほうが投球効率がいい。江川にいわせれば、”それは野球での話ですよね・・・”となる。
 象徴的なのは沢村賞である。江川は賞を取り逃がしてしまった。沢村賞の栄冠に輝いた西本の記録と並べてみよう。
 勝ち星: 西本=18勝12敗、江川=20勝6敗
 完投数: 西本=14、 江川=20
 三振数: 西本=126、 江川=221
??? これでどうして江川が沢村賞ではないのか?すべてにおいて圧倒的に江川の記録が上なのに。選考理由に人格とかいうものが含まれるとでもいうのか?そのとおり、選考委員会が江川落選の理由に「成績としては充分な資格があるが、人間としての品格に問題がある」
いまなら、はぁ?というブーイングの嵐が起こるだろう。選考基準に人格って、、、、それに、江川は不正をしたわけでも素行が悪いわけでもないのだ。選考委員会の好き嫌いというおかしな基準で落選させられたに過ぎない。そんなことがまかり通っていいのか?
 話を元に戻そう。1978年11月21日。空白の一日と呼ばれる日だ。
 ドラフト会議で交渉権を得た球団がその選手と交渉できるのは、翌年のドラフト会議の前々日と当時の野球協約ではされていた。野球浪人で、大学生でも高校生でもない江川はドラフト対象規定の枠外にいた。球団代表の長谷川氏、船田某氏が江川卓氏同席のもと、記者会見。「巨人が江川と選手契約を結んだ」と発表し、世間は騒然となる。世間はパッシングし、そしてプロ野球実行委員会も、江川の野球選手登録の申請を却下した。巨人はこれを不服とし、翌日のドラフト会議をボイコットした。このころの巨人は、野球は巨人のためにあるものだと思っていた。実は世間もそう思っていた。この要求が咽めないなら、巨人は新リーグ設立もちらつかせたという。プロ野球コミッショナーの金子氏はこれを調停、野球協約に基づき、巨人が勝手に欠席したドラフト会議は有効とし阪神の交渉権を認めた。問題はむしろここからで、江川は阪神入団、しかし入団日の当日、巨人に”電撃トレード”される。このとき巨人は小林繁投手を放出している。

もちろん茶番だ!前述のとおり、マスコミは江川を悪者にするが、こんな茶番、江川個人が画策できるわけもない。だいいち、江川は野球協約にのっとり阪神に入団したのだ。だから、この日のことを引きずって、沢村賞の資格がないというのは、名誉毀損ものである。
 すこしでもマスコミ受けがよくなるように大人しくしていた江川も思わずこんなコメントを出した。
「この賞を選んだ人たちに僕の人間としての品格をとやかくいわれる覚えはありません。この賞は、投手が一生懸命に投げ、その結果すばらしい成績を残す、それを評価するものじゃないでしょうか。」

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来年は、ワインについて書こう。なぜなら、江川氏の趣味だからだ。
へんな大人たちが悪役に仕立てた江川卓。わたしは何を隠そうアンチ巨人で大の江川ファンである。

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<来年の宿題>
・江川氏とワイン
・ワインについて
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●見出しの画像
江川事件によって阪神にトレードされ、巨人キラーの異名をもつようになった小林繁投手。15勝しなければ辞めるという公約どおり、1983年13勝をあげるも退団。引退後は、野球解説者として活躍するも心不全で死去。享年57歳

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