"引きこもり"とはどのような困難なのか - ピアスタッフAさんの現象学的分析
一部のネットの声を読むと、引きこもりとはどのような困難なのかについて、引きこもり当事者の経験に基づく観点は、あまり一般には理解されていないのだな、と感じる。
わたしは卒業論文で、引きこもりの支援をしているピアスタッフのインタビューをした。研究テーマは「精神障害ピアスタッフの実践の土台となる視点」である。ピアスタッフとは、自身も当事者でありながら、支援者として働いている人のことを指す。
今回の記事で取り上げるのは、自身も引きこもりの経験を持ちながら、引きこもりの支援をしている人が、"引きこもり"という困難をどのようなものとして捉え、どのように関わるべきだと捉えているのか、という問いである。
結論から述べると、インタビューの中で、ピアスタッフの方から教わったのは、以下のような観点であった。
・人を「本心では関わりを求めているにも関わらず、関わりを拒絶してしまうという矛盾に苦しんでいる存在」として捉える
・人がある相手を関わりを持つ相手として受け入れられるかどうかは、"直観"によって選別されてしまうため、本人の意志でコントロールできるものではないと捉える
この記事では、自分の卒業論文の中から、ピアスタッフのAさんが、"引きこもり"のXくんとの交流について述べた語りを引用し、実際に引きこもりを経験し、現在"引きこもり"の支援に携わるピアスタッフが、"引きこもり"という困難をどのようなものとして捉えているのかを明らかにしたい ※1。
私の卒業論文の要約は、雑誌"精神科看護"の2018年7月号掲載の「精神障害ピアスタッフの実践の現象学的分析 : ピアの視点を看護に活かすために」で公開している。また、大学に提出した卒業論文の全文が欲しい方は、私に個別にお声かけいただけると嬉しい。
【関わりを拒絶してしまう気持ちの理解】 = 人間は、ある対象との関わりが自分に与える影響を受け止められない場合、その対象との関わりごと拒絶してしまう
まず、ピアスタッフのAさんとXくんの話に入る前に、私の卒業論文の主張の中核の1つである、【関わりを拒絶してしまう気持ちの理解】について説明したい。
Aさんに限らず、精神障害ピアスタッフとして働く人の語りには、「ある対象との関わりを受け入れたい(受け入れないといけない)とは思っているが、受け入れられない」というアンビバレントな人間の感情を語る部分が多数登場した。このようなアンビバレントな人間の感情に対する理解(=関わりを拒絶してしまう気持ちの理解)が、ピアスタッフの仕事の土台となっており、この理解に基づいて、ピアスタッフは支援を行なっていた。
以下の文章は、C さんの勤める地域活動支援センターの利用者であるYさんが、ケースワーカーの交代に伴い、新しいケースワーカーから、自分の生活のことをある程度は自分でやるように言われた場面である。Y さんは、この状況の変化についていけずに混乱してしまっており、状況の変化を受け入れることを拒絶していた。
(利用者のYさんは)最近になって、(ケースワーカーが)「ある程度は自分でしましょうね。」っていったら一気にバランスが崩れちゃった、ってことがあって、それで、(Y さんは)「なんでしてくんないのよ!」って言うので......「その自分の一生の中で、こうしてみたらああしてみたらがコロコロ変わったら人間って、その、混乱するよね」みたいな、「なんかそういうところに寄り添う人がいないと、その混乱を受け入れることも難しいんじゃないか」みたいな......自分も、その支援を受けていた立場であったから、気持ちが分かるんですよね。でも、支援してる側の人は、もうその立場で何十年も来ちゃってるから、相手の想像が及ばなくなっちゃってるっていうか、なんかその、すごく正しいことを押し付けちゃったりとかね。うん。でもそれを、ピアの私が見てると、それは正しい、確かにそうだったらどんなに良いかと思うけど、人間はそうできてない、みたいな......なんか正しいことって押し付けられると受け取れない、じゃないですか。......これまで、どういう風に精神保健の世界で、方針がコロコロと変わり、それにみんなが翻弄されっていうのも知っているから、だからなおさら、そこは、こう、一足飛びにできないとこだよなー とは思っています。
"人間はそうできてない"という言葉が表すように、この語りで問われているものは「人間とは、どんな存在か」である。
C さんの主張の中核は2つである。
まず、C さんは「人間は、方針がコロコロ変わる状況に置かれた時、状況の変化に翻弄され、混乱してしまうものだ」と捉えている。このように、Cさんや他のピアスタッフの語りからは、「人間は、自分の意図では制御できない形で、状況から影響を受けてしまう存在」だと捉えている前提が多数見受けられた(この点については、元の論文で詳しく考察している)。
次に、"正しいことって押し付けられると受け取れない", "そういうところに寄り添う人がいないと、その混乱を受け入れることも難しい" に着目する。いずれの発言においても、C さんは、Y さんが、状況の変化が Y さんに与える影響(=混乱など)を受け止められる状態にないために、「ある程度は自分でしましょうね」という発言を受け止められる状態にないことを指摘している。このように、Cさんや他のピアスタッフは「人間は、関わりが自分に与える(もしくは、与えると予想される)影響を受け止められない場合、その関わりを拒絶してしまうものだ」と考えていた。
余談だが、Cさんが支援してる側の人は、関わりを拒絶してしまう気持ちに想像が及ばなくなりがちだ、と述べている点も印象的である。
"関わりを拒絶してしまう気持ち"を理解している人は、目の前の人が状況の変化を受け入れられる状態にないことに気づくことができるので、より適切な声かけや対応を取ることができる。一方で、関わりを拒絶してしまう気持ちを理解しておらず、相手の気持ちに想像が及んでいない人は、関わりを押し付けてしまい、より本人を頑なにさせてしまうかもしれない。
【関わりの可能性を拒絶してしまう気持ちの理解】 = 人間は、ある対象との関わりが自分に与える影響を受け止められそうにない場合、その対象との関わりの可能性を拒絶してしまう
さて、それではAさんとXくんの話に入っていこう。
最初に述べた通り、Aさんはピアスタッフ、Xくんは、Aさんがたまたま出会った引きこもりの当事者である。
Aさんは、Xくんとたまたま地域の交流会で出会い、Xくんから連絡先の交換を提案され、メールのやり取りをするようになった。その後、Aさんは Xくんの自宅に招かれることになったが、A さんが Xくんの家に着いた途端、X くん は、自分の生い立ちや、最初に好きになった女の子の話、学校でいじめられた話などを怒涛のようにしゃべり出し、午後 6 時から夜中の 3 時まで話し続けたという。
結論から先に述べると、Aさんは、Xくんが引きこもった理由を「人と関わりたい気持ちがあるにも関わらず、人に自分のことを話した時に否定されてしまう可能性が怖いために、人と関わるという可能性を拒絶せざるを得なかった」という観点で捉えている。
具体的な語りに入ろう。以下は、Xくんが怒涛のように自分のことを話し出した瞬間を見て、A さんが、"Xくんの気持ち"をどう捉えたのかを語る場面である。
だからその時に思ったのは、その彼は、Xくんは、社会を拒絶したいとか、距離を置きたかったんじゃなくて、自分が社会に出てって、僕ってこういう人間ですって言った時に、それを否定されちゃうのが怖かったんだ。だから、社会に行けな、出なかった。あのー、この人がホントは、社会と拒絶したいんじゃなくて、自分を表現したかった。だからその表現しちゃったのを、否定されるのが怖かったから、結果、引きこもったんだなぁ、と思って。
語りの中の"だから、社会に行けな、出なかった"に注目したい。A さんは、言い直してまで、X くんは"社会に出なかった"のであり、"出られなかった"わけではないことを重視している。
もしXくんが、社会に出られない状態に置かれているのだとすれば、Xくんの心に「社会に出てって、自分を表現した時に、それを否定されてしまうこ と」への怖れは生じない。むしろ、X くんは自分はいつでも社会に出ることができることを分かっているからこそ、「社会に出て、自分を表現したのを否定されることへの恐怖」が X くんの心に湧きあがるのである。X くんはこの恐怖から逃れるため、社会に出るという可能性からできるだけ目を背け、社会に出るという選択肢が自分にあることを自ら否定しようとする。その結果、X くんは、社会を拒絶したいわけではなかったにもかかわらず、 自分の意志で社会に出られなくなってしまう。
Aさんに限らず、ピアスタッフの語りからは、以下のような人間観が何度か見受けられた。
・人は、"ある対象と関わりを持つ可能性"が自分にあることを意識する時、"実際に関わりを持った後に自分が被り得る影響への不安・恐怖・混乱"が、 その人の心に引き起こされる。(これを先読み不安と名付けた。)
・先読み不安を受け止められない場合、人は、先読み不安から逃れるために、その対象と関わりを持つ可能性が自分にあることを自ら否定しようとする。
【直感に基づく選別】 = 関わりを受け入れる/拒絶するは、直観に基づいて選別されており、本人の意志でコントロールできるものではない
さて、Aさん曰く、Xくんは、自分のことを表現したいにも関わらず、不安のために他の人と関わるのが困難な状況に置かれていた。しかし、Xくんは、Aさん相手には"自分のことを話す"ことができている。それはなぜだろうか? "話せる相手"と"話せない相手"を分ける境界線はどこにあるのだろうか? その問いに対する回答を探っていこう。
彼の、ねぇ、なんていうかな、そこから出ない、引きこもってるその世界観の中に、 僕が入れたわけじゃん。うん。だからその、どうして入れたのかっていうのは、彼の方の論理だから、どうして僕が入れたのか分かんないけど、とにかく入れたわけじゃない。で、 入ったら、引き出せたわけです。うん。まあそれも、なんで僕に話してくれたのかは分からないけど、とにかくその、彼の世界観の中に入ることはできて、なおかつ、彼の表現したいもの、が、もう引き出せたわけじゃん。
"自分のことを話せる相手"として選ばれたことを、Aさんは「彼の世界観の中に入る」と表現している。この語りの中で、"彼の世界観の中"とは、「X くんが関わりを持つ可能性があると認識している対象の集合」のこと、そして、"彼の世界観の中に入る"とは、「Xくんが、Aさんのことを、この先関わりを持つ可能性がある相手として受け入れた」ことを指している。
だから、多分、彼はずっと待ってたんだろうね。自分の世界に入ってくる人をね。
ー なんかその、自分の(Xくんの)、世界に、どのタイミングで、Aさんは、入ったんですか
それを説明するのは難しいですよね。それは向こう側の問題だと思うんだよね。 たぶん、最初に会った時に、その、ちょっと音楽の話をして、たぶん、この人だったら、 僕の話を聞いてくれるっていうものを、僕の何かから感じたんじゃないかな。......この人 だったら、僕の世界に、入ってきても、拒絶しないし、あのー、この人だったら、自分の 内面を話せるっていうふうに、まあ、彼の何か、第六感みたいなものっていうのがあった んじゃないかな。
A さんは、Xくんを「本心では、関わりを求めているにも関わらず、関わりを拒絶してしまうという矛盾に苦しんでいる人物」として捉えていたが、この語りでは、その矛盾する気持ちを、"だから、多分、彼はずっと待ってたんだろうね。自分の世界に入ってくる人をね"という言葉で表現している。
さて、Xくんが、Aさんのことをこの先関わりを持つ可能性がある相手として受け入れた具体的なタイミングは、A さんはXくんが出会った地域の交流会だったと思われる。
(X くんと出会った交流会は)7、8人くらいのテーブルだったわけだよ。だか ら、僕じゃない誰かを、彼が選択してた可能性だって全然あるわけで、たまたま僕と彼、 Xくんだったわけでしょ。......集団で話してて、「あ、この人は、僕の事を、話しそうだな」 とか、「気が合いそうだな」とか、うん。いう人を、複数人の集まりの中から、見つける事っていうのは、あの、いいことだと思うし、その方がやっぱり可能性は、あると思うんだ よね。例えば、極端な手法でいうと、一人の当事者さんがいますと。で、ピアサポーター 5人いますと。で5人が1人ずつ会ってって......例えば「○○さんがいいです」とかね。
"選択"という言葉に着目する。A さんの主張をまとめると以下のようになる。
・X くんは、"この人だったら、僕の話を聞いてくれるっていう第六感みたいなもの"を頼りに、自分の内面を話せる相手を選んでいる
・いつ/どうして A さんが X くんの世界観に入ったのかは、"彼なりの論理"に基づくものであり、A さんが勝手に説明したり決めつけたりできるものではない
・Xくんにとって、ある相手が自分の内面を話せる相手となるかどうかは、X くんの第六感に基づいて判断されるものなので、Xくん本人にも完全にはコ ントロールできない。
・Xくんの第六感がどんな相手を選ぶのかは、 X くん自身にも説明できるものではなく、実際に会って直観をはたらかせてみて、初めて答えが分かる。
このような、第六感に基づいて、相手を関わりを持つ相手として受け入れるか拒絶するかを判断する機構のことを、直観による選別と名付けた。
ここまで来て初めて、私たちはAさんの"彼はずっと自分の世界に入ってくる人を待っていた"という発言を理解する土台が準備が整ったことになる。その相手が、自分の内面を話せる相手(=自分の世界に入ってきてくれる相手)となるかどうかは、自分の意志でコントロールできない"直観"によって決まってしまうため、Xくんにはどうしようもできないことだということになる。そのため、Xくんにできることは、自分の直観(=第六感みたいなもの)が、「この人なら私の話を聞いてくれそうだ」というOKを出す存在が現れることを"待つ"ことなのだ。
【関わりを受け入れるために必要な条件の理解】 = 人が関わりを拒絶してしまう原因や、関わりを受け入れるために必要な条件を推測する
Aさんが持っている"引きこもり"という困難を捉える視点は、一般の考えからすると突飛なものに思われるかもしれないが、かなりの面で真実を捉えている、と私は思っている。
Aさんの視点の根本にあるのは、【関わりを拒絶してしまう気持ち】への理解だと思う。人間は、しばしば、自分の意志ではどうにもならない【関わりを拒絶してしまう気持ち】に振り回されながら生きている。【関わりを拒絶してしまう気持ち】は、自分の意志ではどうにもならない"直観による選別"によって決まってしまうものなので、本人の"意志"でコントロールしきれない。
この【関わりを拒絶してしまう気持ち】の理解が足りない場合、支援はちぐはぐなものになると思われる。
以下は、研究対象者のピアスタッフの方々の支援について、図にまとめたものである。特徴的なのは、ピアスタッフは、相手が"関わり"に対してどの程度前向きな状態なのか(=図の”フェーズ”にあたる)を判断しており、それによって支援の内容を変えている、という点だ。
そもそも、関わりを持つべき相手に興味がない時(=フェーズ0)と、その相手と関わりを持つ可能性が自分にあることを意識しているが、その相手との関わりを拒絶している(=フェーズ1)と、その相手との関わりに心を開いている状態(=フェーズ2)では、やるべきことが全く異なる。フェーズを間違えた支援は、むしろ逆効果になる、とのことだった。
ピアスタッフの方々は、自身の経験を参照しながら、相手の【関わりを拒絶してしまう気持ち】を想像・解釈することで、利用者が関わりを拒絶してしまう原因や、利用者が関わりを受け入れるために必要な条件を推測していた。(論文中では、これを関わりを受け入れるために必要な条件の理解と呼称した。)
【関わりを拒絶してしまう気持ち】の向こう側にある"葛藤"に目を向けて
引きこもりという困難について語る上で、私たちに必要なのは、相手の中にある、関わりを拒絶してしまう気持ちと、でも関わりたい気持ちのせめぎ合いを理解しようとする態度ではなかろうか。
【関わりを拒絶してしまう気持ち】は、"引きこもり"という状況に限らず、色々な場面で起きていることだと思う。例えば、誰かに自分の話を聞いてほしいにも関わらず、目の前の相手に"話そう"とは思えない、という状況は、経験がある人も多いのではないか。
"関わりを拒絶している"ことと、"関わりたくない"ことは別だ。自分の中に強烈な"関わりたい気持ち"があってもなお、私たちは関わりを拒絶してしまうことがある。その気持ちの理解なくして、引きこもりの問題を語るのは無茶ではないか。ピアスタッフの方々から話を聞いた身として、私はそう思うのである。
私たちが考えている以上に、人の意志は複雑で曖昧なものだ。"引きこもっている"という結果だけを見るのではなく、関わりを拒絶してしまう気持ちを理解することで、物事の別の側面が見えてくる。引きこもっている人に自己責任を押し付けて追い詰めるのではなく、その人が置かれている困難や、その人が抱えている葛藤に関心を寄せることで、実は、その人の中にも、本当は"関わりたい気持ち"が眠っていることに気づくことができるかもしれない。私がピアスタッフの方々のインタビューで感じたのは、そういう微かな希望である。
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※1 本記事のインタビュー部分は、全て卒業論文の引用であるが、考察部分は一部書き直している。また、本記事では、論文における主張の一部のみを紹介したため、いくつかの重要な主張や前提が欠けているが、それはご容赦いただいたい。雰囲気だけでも感じてもらえれば幸いである。
論文中の「本研究の限界」にも書いたことだが、本研究は、"現象学的看護研究"という、やや特殊な質的研究手法を用いたものであり、ピアスタッフの視点の一つの在り様の記述を示すものである。それゆえ、本研究で示された結果は、他の現在働いているピ アスタッフの実践に必ずしも当てはめることができるものではないし、普遍性があるかはわからない。だが、このような観点で"引きこもり"という困難を捉えられると知っておくことは、意義のあることであると考えている。
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