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ぼっちサークル運動とは何だったのか 〜Twitterサークルの歴史〜

※本記事は、マガジン「変なサークル学会 調査報」の一本目として寄稿した記事である。

私が大学生の頃、具体的には2012〜2015年ごろ、日本の大学生のTwitterユーザの中で、明確な活動目的が不明な「サークル」を作る動きが広がっていた。それらは「ぼっちサークル」や「童貞連合」など、本来マイナスと見なされるアイデンティティを共有しようとしたり、「睡眠研究会」や「帰宅部」など、何も活動しないことを活動内容として掲げようとしたりと、いわゆる"普通の"サークル活動に対するアンチテーゼとしての意味も含んでいた。

筆者は、このようなサークルを「Twitterサークル」と呼称して、2012〜2015年ごろの間、ずっと動向を追っていた。この記事は、筆者が調べた内容をまとめるものである。

Twitterサークル年表

Twitterサークルが各地の大学を広がりはじめ、ある種の社会運動として認識されてきたのは2012年の5月ごろからだったように思う。

多様な種類のサークルが存在していたものの、本記事では主に「ぼっち系」のサークルの出来事に力点を置いて説明する。理由としては、Twitterサークル全体の歴史を説明する上で代表性が高いこと、筆者が詳しいため説明しやすいことである。

さて、埼玉大学ぼっちの会など、2012年以前から活動している「ぼっち系」の団体はいくつか存在していた。しかし、それらは各大学に細々と活動しているサークルが点在しているにすぎず、大学をまたいだ「社会的なムーブメント」にはならなかった。

「ぼっちサークル運動」という言葉がTwitter上で使われ出したのは、「明治大学ぼっちサークル」(@meiji_hitori)が火付け役だったと筆者は記憶している。明治大学ぼっちサークルは、特に思想性の強いツイートを全面に押し出しており、Twitter上で「ぼっち革命」などの政治的なワードを用い始めた。そして、その思想に(半分ネタとして)乗っかるTwitterアカウントがいくつか出てきた。

また、2012年5月には、「東大そば部」(@ut_sobabu)をはじめとする東京大学麺類系サークル大発生の波があった。元々、東大には「東大うどん部」という戦後から続く歴史の長いサークルが存在したのだが、そのパロディとして誰かが「東大そば部」というアカウントを作ったのが発端である。その後、筆者の友人が「東大そうめん部」(@UT_soumennbu)をつくって、四ツ谷にあるそうめん専門店「そうめんや」で大学生Twitterユーザが集まるオフ会を開いた。以降、「とりあえず変な団体名でアカウントを作る」というネタが、主に東大生ツイッタラー近辺のTwitterユーザの間でネットミーム化し、2012年6月には「東大麺類嫌悪会」(@hate_noodle)というアカウント名まで現れた。

このネットミーム化に合わせて、日本中の大学で、活動目的やメンバーも不明なうちから、「サークルのアカウントだけ作る」という動きが流行した。2012年5月に生み出されたものだけでも、「慶應ぼっち対策委員会」(@botti_keio)、「成城大学孤独研究会(仮)」(@seijo_botch)「立命館大学帰宅部」@rits_kitaku、「東京外大睡眠研究会まどろみ」(@madoromi_tufs)、「河合塾塾生ぼっちの会」(@k_bocchi)、そして、私が立ち上げた「東大ダメ人間の会」(@piyokeey)がある。なお、筆者は2013年7月2014年7月に簡単な調査を行い、私が相互フォローを辿りながら当時観測できたアカウントを記録しているので、ご興味があればそちらをご覧いただきたい。

このムーブメントは、少なくとも2012年から2013年くらいまでの間は続いていたようだ。新しい団体アカウントが現れると、今までの団体のアカウントが新しい団体の参加を喜び、RTして拡散を手伝う、というような流れができていた。

とはいえ、サークルとしての活動を継続できた団体の数は決して多くはなかった。2012年末ごろに作られたまとめを見ると当時の雰囲気を何となく垣間見ることができるが、多くの代表者が活動指針や自団体の存在意義に悩んでいたことがわかる。この印象は、当時筆者が複数の団体にインタビューを行った印象とも一致している。

2013年末から2014年ごろになると、当時も活動を続けていたいくつかのサークルが新聞やテレビでも取り上げられるようになる。2013年12月には、毎日新聞の夕刊にて、京大で「ぼっちサークル」を立ち上げた男子学生についての記事が掲載された。 2014年7月ごろには、朝日新聞社のWebメディアwithnewsで、ぼっちサークルについて言及する記事が出た。

さまざまな大学名を冠した「ぼっちサークル」も存在する。
例えば「武蔵野大学ぼっち飯同好会」のアカウントは、学内で一人で食事する際の場所のとりやすさや居心地に加え、にぎやかに食べる同級生との落差を自らネタにしている。 

この記事に関わった朝日新聞の原田朱美記者は、その後も若者の中でのこのような動きに注目し、「ぼっち学生考」という名前の連載を朝日新聞デジタル上で行っている。(現在は非公開)。

ちなみに当時、筆者は原田朱美さんに連絡を取り、話をしたが、この頃の若者が「ぼっち」や「キョロ充」などのマイナスのワードを使って、自分のある種の「イタさ」をネタに、インターネット上で自己表現を試みようとすることの裏にある心理や価値観に関心があるようだった。(実は一緒にプロジェクトをやろうという話もあったのだが、それは形にならず消えた。)

2015年10月22日放送の、NHK Eテレ「オトナヘノベル」の中で、早稲田大学ぼっち飯研究会会長のひなたさんと、武蔵野大学ぼっち飯同好会会長の拓真さんが出演した ※2。

筆者も、ひなたさんに誘ってもらってNHKのスタジオまで同行した(出演はしてない)。主には、番組に寄せられた若者の「ぼっち」の悩みに、ぼっちサークル会長らが答える、というもので、若者の間で「ぼっち」の悩みがこれだけコモディティ化し共感を集めるテーマになっている、という事実にNHKが注目したのだと思われる。

2016年1月13日の読売新聞、2016年4月14日の日経新聞でも「ぼっち」をテーマにした記事が掲載されており、記事中で武蔵野大学ぼっち飯同好会が取り上げられている。この時期に「ぼっち」に対する社会的な関心が高まっており、それに合わせて、ぼっちサークルに対するメディアからの関心が高まっていたことが窺えるだろう。

なお、個人的に忙しかったため、筆者も詳しく追えてはいないが、2015年以降は、「ぼっちサークル」がメディアに取り上げられる機会は増えた一方で、Twitter上ではあまり大学をまたぐような活動はほぼ見られなくなっていたように思う。2014年ごろを切れ目に、大学をまたいだ「社会的なムーブメント」としてのぼっちサークルは終わり、再び各大学に細々と活動しているサークルが点在する状態に戻った、というのが私の見方である。

Twitterサークルの特徴

さて、順番が前後するが、"Twitterサークル"とは何だろうか。上記で紹介してきたようなサークルには、いわゆる"普通の"サークルとは異なるところがいくつかある。この記事中では3つ取り上げたい。


1. "普通の"人間関係に伴う居心地の悪さを避けることを志向する

「ぼっちサークル」に代表的なように、これらのサークルは(運動部などの)「通常のコミュニティ」に所属するのはキツいが、何らかのコミュニティには所属したい、というニーズに向けて作られている。帰宅部も同様で、所属するためには何か活動に打ち込まなくてはならないが、活動に打ち込むのはキツい、という問題を解消することを目指して作られている。このように、Twitterサークルの多くは、"普通の"人間関係に伴う負担ゆえに、"普通の"人間関係の中に居続けることが困難な人でも"居る"ことが可能になる場を目指して作られていた

その意味で、Twitterサークル運動はいわゆる"生きづらさ界隈"の文脈を継いでいた。今風に言うなら、Twitterサークルには、「ぼっち」などの特性を、ある種の「(障害)当事者」として位置付ける、アイデンティティポリティクスとしての側面があったし、そのような当事者同士で連帯し助け合おうとする自助グループ的な側面もあった。


2. メンバー間の関係性がTwitter的

普通、サークルにおける"所属"は、喩えるなら"LINEグループ"的であるが、Twitterサークルにおける"所属"は、"Twitter"的なものであった。

一般に、Twitterにおいて何らかのサークルのアカウントが存在する場合、実在の団体が、広報や新歓活動のために作ったものであろう。実際に活動が存在し、その活動のためにTwitterアカウントを作る、という順番である。Twitterアカウントは団体の「外部」に対して向けられたものであって、団体のメンバーに向けられた発信には用いられない。団体内部のメンバーとのコミュニケーションにはLINEグループのような「グループチャット」が用いられ、団体内部と団体外部のコミュニケーションの場は区切られている。

しかし、Twitterサークルにおいては、先にTwitterアカウントが存在し、後から実際の活動が付いてくる、という変則した形を取る。Twitterアカウントが生まれた時点では、実際には何の活動も存在せず、メンバーさえいない。だが、無数の「フォロワー」らが擬似的な「メンバー」となり、活動が開始される。メンバー間のコミュニケーションは、Twitter上の「つぶやき」が主である。時折、つぶやきの中で、Twitter上にいる「メンバー」に向けて、「活動」の告知を行い、メンバーに参加を呼び掛ける。すると、「メンバー」らはその告知を見て、その「活動」に参加したりしなかったりする。「活動」自体は、ハッキリ言えば目的の無いモノであり、一緒に食事をするとか、日向ぼっこをするとか、そういったものがメインである。

Twitterサークルの場合、大学名や地域など、大まかに現実世界のどのあたりを活動エリアにしているかは示している(筆者はこれを「地域性」と呼んでいた)一方で、参加者と非参加者の境界線が明確ではない(筆者はこれを「開放性」と呼んでいた)。団体とメンバーの関係は"所属"というよりも"フォロー"に近かった。参加者は、タイムラインに流れてくるツイートにいいね(当時はふぁぼ)をするように、Twitterサークルの企画に参加していたのだ。

情報社会論を専門とする文化人類学者である木村忠正は、Twitterを代表するデジタルのコミュニケーションについて分析した著書『デジタルネイティブの時代 なぜメールをせずに「つぶやく」のか』の中で、電話、メール、SNSといったコミュニケーションツールの変化を分析し、現代のデジタルのコミュニケーションツールは、相手の時間を奪ったり行為を強制したりすることを避け、できる限り相手にコミュニケーションの選択を委ねることを志向する方向に進化している、と述べている。つまりは「やさしい関係」を実現する方向にコミュニケーションツールは進化している、という主張である。Twitterサークルにおける新しい"所属"の形式は、相手に普通の"所属"に伴う圧力をできるだけ避け、所属/非所属の状態すらをも相手の選択に委ねたままにしようとするものであり、この流れの先端に位置する試みだったと評価できると思う ※1。

とはいえ、このような不安定な"所属"の形式を取っていたのはTwitterサークルの一部で、Twitterサークルが大学をまたいだ「社会的なムーブメント」になっていた2012, 2013年代にほぼ限られていたと思う。2011年代以前から活動していた埼玉大学ぼっちの会や、2014年以降も活動していた武蔵野大学ぼっち飯同好会などは、メンバーの名簿などが存在しており、メンバー/非メンバーの境界が比較的はっきりしている体制を取っていた。


3. サークルの存在自体がメタなネタになっている

言うまでもなく、「ぼっちサークル」という単語がすでに形容矛盾である。他にも「〜キャンパスを〜まで押す会」など、活動目標が元から達成不可能であることを織り込んでいたり、「麦茶同好会」※3など、わざわざ同好の志を探したり研究するほどではないテーマをわざわざ選んだりするなど、団体名自体がすでに「なんだそれ」と言いたくなるようなネタ性を含んでいる。

これはTwitter上における「ネタアカウント」文化と不可分であるが、そのネタに対して「参加可能」であることがTwitterサークルのユニークな点だ。サークルに所属を表明する行為自体が、すでにネタの一部になっているのであり、鑑賞者自身が作品に関わることによって完成する参加型アートのようでもある。「〜キャンパスを押す会の新歓に参加してきました!」とつぶやくだけで、すでにちょっと面白いからだ。

これは"所属"というものを"軽く"する工夫とも評価できるだろうし、また自分たちの存在を笑い飛ばすことで、("ぼっち"や"童貞"などの)自分たちの悩みや困りごとをも一緒に笑い飛ばそうとする姿勢とも評価できるだろう。

筆者の知り合いだった埼玉大学童貞連合会長は、数年もの間、ほぼ毎日童貞ネタをTwitterで呟き続けていたが、そのおかげで童貞であることを人前で話すことが恥ずかしくなくなった、と言っていた。「童貞連合の代表」という肩書きがあることで童貞をネタにしやすくなった、と言っていたのが印象的であった。

また、団体のネタ性が、拡散や集客において非常に重要な役割を担っていたという点は注意すべき点であろう。「ぼっちサークル」というネタが面白くなければ、ここまで運動として広がらなかったのは明白である。

Twitterサークルが筆者にとって相変わらず面白い学術テーマであり続けているのは、このネタ性によるところが大きい。前述の二点の特徴だけであれば、いわゆる居場所活動とTwitterサークルを区分するものはなかったと思う。

最近では、2017年にTV放送されたアニメ「けものフレンズ」のアライさんのアイコンを借りて、自分の不幸な境遇をつぶやく「アライさん界隈」というものが存在するが、これと似たような自己開示の装置としての機能と、自己開示を通して連帯していく機能がTwitterサークル文化にはあったのだ。

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Twitterサークルの崩壊

このような理想と手段を持って活動してきたTwitterサークルだったが、ほとんどのサークルは、活動を維持できず、すでに活動停止しまっている。立ち上がってから一年以上活動を維持できるサークルは1割もなかったというのが筆者の所感である。

1番の理由は、運営コストの高さに対する実利の見合わなさ、要するにコスパの悪さだろう。

「Twitterサークル」は現代の大学生が抱える、「誰も傷つけたくないし傷つきたくないけど、それでも誰かとつながりたい」という矛盾した欲求をどちらも満たすことを目指していた。だが、団体を運営していた人間ならご存知だろうが、団体運営にはそれなりの労力が要る。具体的には、会場の確保や企画の考案・告知などだ。これらをやり続けるには運営メンバーのそれなりのコミットメントが必要なのだが、Twitterサークルが"ゆるいつながり"である以上、メンバーに団体運営へのコミットメントを要求することができない。この矛盾ゆえ、ほとんどのTwitterサークルの運営は、代表者などの一握りの人間の献身によってのみ運営される状態が常態化していた。ほとんどの団体は、代表者が負担に耐えられないために崩壊したと私は見ている。

当時、筆者は複数の代表者にインタビュー調査を行ったが、どこのサークルの代表者も参加者や運営者の確保に苦戦していた。筆者自身も、企画をTwitter上で告知したものの、開催場所に誰も来ず、数時間待ち続けた経験が何度かある。一方で、武蔵野大学ぼっち飯同好会など、序盤から中核メンバーが複数人確保できた団体は、比較的継続する傾向にあったようだ ※4。

まとめと振り返り

こうして振り返ってみると、2012, 2013年代のTwitterサークルは、2011年以前や2014年以降とは少し毛色が違っていたのではないかと思う。

2011年以前や2014年以降に見られるサークルの多くは、一応メンバーの名簿があったりと、メンバー/非メンバーの境界がはっきりした体制をとっており、一応団体としての体を成しているサークルが多い。その意味で、2011年以前や、2014年以降のTwitterサークルの方が、より「"普通の"サークルっぽかった」※5。

火付け役であった明治大学ぼっちサークルが最初に掲げていた思想、「全国のぼっちよ、連帯せよ」というような思想に基づき、各大学のぼっちがゆるくつながっていくようなムーブメントは、もはや2014年頃には死んでいたのだと思う。当時の自分は、あのよくわからない熱狂の中に巻き込まれていたが、やはりあれは単なる夢に過ぎなかったのだろう。ぼっちは、ぼっちのままでは連帯できない。それが真実だったのだ。1970年代の学生運動に参加していた人も同じような感想を持つと聞いた。

筆者自身は、2015年以降、東大医学部健康総合科学科への進学を機に、自助グループや当事者活動へと興味が移っていくこととなり、それ以降、Twitterサークルの動向についてはほぼほぼ関知していない。それ以降の歴史については、他の執筆陣が明らかにしてくれることを期待している。

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※1 とはいえ、2021年現在からすると、Twitterが「やさしい関係」を志向していると言われても、正直あまりピンとこない。昔はTwitterなどのSNSは、まだ2ch的な雰囲気が残っており、現実の人間関係では言えないようなことも言える場、という認識だったが、最近はほぼ現実の人間関係の再現であり、むしろSNSの方が公の場なので発言に気をつけなければならない、という雰囲気になってきている。木村が述べたような「やさしい関係」への志向は、現在はバックラッシュの最中にあるだろうと筆者は思う。

※2 2014年に残っていた有力な「ぼっち系サークル」がいずれも「ぼっち飯サークル」を標榜する団体だったという事実は、個人的にはけっこう示唆的な事実だと思っている。2012, 2013年代のぼっちサークルは、「メンバーとの関係が強くなりすぎるとそもそもぼっちサークルとは言えなくなる」という思想的矛盾ゆえに、メンバー同士のつながりを強固にするような体制を取れない状態にあった。しかし、人に紐づく属性である「ぼっち」と違い、「ぼっち飯」は状態や行為にすぎない。「ぼっち飯サークル」は、「普段からぼっち飯をするような人間が集まっているだけ」であり、上記のような批判を受けにくいため、メンバー同士のつながりを強固にするような体制を作りやすかったのである。

※3 ちなみに北海道大学麦茶同好会の人には、当時「私たちは(ちゃんと活動している実態あるサークルなので)Twitterサークルじゃない、一緒にしないでくれ」とTwitter上で何度も批判された。しかし、麦茶同好会の存在が「大学名をつけて変な名前の団体を作る」というネットミームの加速に寄与していたことは明らかであるため、私個人としては他団体とまとめて記述するようにしている。本来ならば、全団体に対してインタビュー調査などを行えば団体の実態を含めて分類ができるのだろうが、筆者にそれほどの体力がなかったため、「Twitter上の見た目だけでTwitterサークルかどうかを分類する」というルールで調査を貫徹する方がマシだろうと判断した。

※4 完全に余談だが、起業家の界隈でも「起業は中核メンバーが二人以上存在すると長続きしやすい」とよく言われる。不安定なことをやっていく場合、目的を同じくするメンバーが二人以上存在した方が、モチベーションの波を乗り越えやすい、という理由があると思われる。

※5 他のパターンとして、「ただのネタアカウント化する」というパターンもある。2017年近くまでTwitterの更新を続けていた埼玉大学童貞連合も、Twitterで集会の告知をすることがほぼなく、「ただのネタアカウント」としての活躍が主になっていた。

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