「母からされた虐待をSMクラブで再現してみた話」を読んで考えたこと

昨日の小山さんの記事の余波がまだ残っており、いろいろ考えたのでメモ。

前から小山さんとは友達なので、よく話をする。最近だと「インターネットは自殺を防げるか?」の読書会を一緒にやった。

そういう中で思ったことだが、僕はかなり他人に対して普段から心理的距離を取るんだけど、小山さんは、周囲につらそうな人がいると、ケアしにいくというか、つらさをすごく受け取る人だなーと思ってて、その辺を対照的に感じていた。小山さんには周囲の人のつらさを受け取ってしまう「つらさアンテナ」みたいなのが付いているのでは?と思った時もある。

読書会中に、参加者の一人が自分の過去の話を始めた時に、僕は「へーそうなんだー」くらいのノリで聞いていたが、横に座っていた小山さんが、その人のつらさをアンテナで受信してたというか、かなり深く感情移入してたように見えたのが印象に残っている。

で、その辺の違いって、親との関係もあるのかなー、なんてことを勝手に考えていた。

vulnerabilityの過剰

ケアの倫理学に「vulnerability」という概念がある。ちょっと誤解を招く言い方だけど、一言で言えば、状況から影響されやすい性質のこと。日本語だと「弱さ」とか「脆弱性」という訳語になる。

例えば、前に書いたこの「ぬいぐるみペニスショック」について書いた(ヤバい)記事。

女性側には、過去に性的な対象として見られて嫌な想いをする経験に何度も会ってきたという背景があるわけで、女性側が恋愛感情を向けられて嫌悪感を抱くことは"仕方ない"(=本人ではなく、社会に責任がある)とも言える。

だとすれば、男性側が恋愛感情を表出することは、他の人を傷つける可能性があるのだから、適切な"配慮"として、男性側が恋愛感情を表出することを規制すべきだ、と主張することはむしろ自然なことだと言える。この場にはセンシティブな人間が居て、そのセンシティブさは本人が悪いわけではないのだから、他の周囲の人間が配慮すべきだ、という主張だ。

ここでは「恋愛感情を向けられると、嫌悪感を抱いてしまう」というのがvulnerabilityだ。

特に、「〜てしまう」というのがポイントで、つまり、本人の意志で制御できない事態であること、その出来事は、本人にとって「起きてしまってから事後的に発見される」出来事であることを示す。

「〇〇は、~な状況では、~てしまう」という形で表されるものは、vulnerabilityに関する言及として解釈できる。
「大勢の前では萎縮しちゃう」とか。
「あの人を見てると苛立っちゃう」とか。

なお、vulnerabilityが必ずしも「〜てしまう」の形をする、と言っているわけではない。

で、本題なんだけど、vulnerabilityには「周囲からのケアを要求する」という性質があり、この性質の取り扱いを間違えると、権力によって正当化された要求となり、抵抗できない暴力になる

で、そのような観点の議論で、僕と小山さんと意見が一致することが多かったように感じる。

(ラディカル)フェミニズム VS リベラル

僕は去年の5月に「フェミニズムの政治学」を読んで感銘を受けたので、周りの人に勧めてまわっている。

小山さんにも勧めたり、家に遊びに行った時に、自分の手元の読書メモを見せながら1時間くらいかけて説明したりしてた。

で、この本のすごい良かったなーと思うところは、この本は、「リベラリズム」を論敵と捉え、リベラリズムと対比しながら、(ラディカル)フェミニズムを考えていくところ。

この本を読んだ後でも、僕の個人的な立場はリベラリズム寄りなんだけど、自分の立場の整理として、この本はとても良かった。


で、「フェミニズムの政治学」の議論に乗っかって、リベラルとフェミニズムを対比するなら、フェミニズムは「vulnerability」を持つ人を放置することの暴力性を重視する思想であり、リベラルは「vulnerability」の持つ権力性を批判する(批判しうる)思想である、と言えるのではないかな?、と個人的には思っている。

論点を先取りしておくと、フェミニズム(というかケアの倫理学)は「vulnerability」を持つ人を周囲の人がケアすべきだ、と考える。これは、ある意味では、弱さで他者をコントロールすることを政治権力が正当化する思想だと言える。

政治思想の議論において、「vulnerability」による操作に対し、政治権力が正当性を与えるか、それとも個人の独立を唱えるか、という分岐があり、それを「リベラル」と「フェミニズム」という言葉で対比できるのだ、という発見があった点で、「フェミニズムの政治学」は僕にとってとてもとても大きな本だった。

vulenerableな母親のもとで

前にcotreeの社員紹介でも書いたが、僕は母親が統合失調症である。(本名出てるけど、もう身バレとか今更だし、掲載しておく)

「フェミニズムの政治学」は、子供(赤ん坊)をvulnerabilityを持つ人の代表例として考え、その子供をケアする「母親」の思考(母的思考)を着想の起点としながら議論が進んでいく。不当な状況におかれながらも、人類の歴史において、子供を育てて命を先に繋いできた「母親」の強さ、というものに可能性を見る。

主体(引用者注:主には男性を表す)は母子関係を一体視・自然視し,「母性愛」を理想化するが,現実に母親業を担う者は,子を見守るなかで非暴力的な共存関係を愛の名の下に実践する。別個の存在である子と継続的な関係性を築くなかから生まれる思考様式が,母的思考と呼ばれる。

松尾純子さんのフェミニズムの政治学の書評 http://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/oz/contents/659-660-11.pdf より引用

・・・んだけど、まあ正直、この辺の議論は、僕個人的としては、ホントかよ、という気持ちが湧くところだ。小山さんの記事を読んだ後なら、みんなそう思うだろう。

これは小山さんの言葉を借りるなら「霊感」なんだけど、僕の個人的な生育歴として、周囲がどう努力してもケアしきれないようなvulnerabilityを持つ人が家族や身近にいるという状況で、ケアの倫理を掲げ続けるのは正直キツイ、という実感がある。

いや、「フェミニズムの政治学」の議論の中では「vulenerability」を持つ存在の代表例として赤ん坊が提示されるからスムーズに読めるわけだが、僕の場合、「統合失調症を持つ母親」を子供の自分が見ている、という状況も想定して「vulenerability」の議論を読まねばならない。

母親はケアする存在かもしれないが、ケアされる存在でもある。そして、子供はケアされる存在かもしれないが、母親に母親をケアすることを要求される存在でもある。「ケアを要求する母親の元において、子供はどうしたらいいのか?」という観点がこの議論の中にないのだ。

で、僕がどうしたかというと、「目の前につらそうな人がいても、自分にできる範囲でやれることをやり、それ以上のことは諦める」という戦略を取った。多分、これは僕が明確にリベラリズム的な立場を選択した瞬間だった。いくら家族だろうと、統合失調症のつらさを子供がケアしきるなんてムリなのだ。母親がどうしようもなくつらいのは事実としてあるだろうが、僕がそれに対して対処するかは全く別の話で、そこは家族だろうと明確な境界(バウンダリー)を引くべきだ。

実際、これができるようになったのは高校卒業くらいで、それまでの自分は毎日かなり他人に対する罪悪感が強くて、死のうかなーみたいなこともたまに考える感じだったのだが、最近は安定している。ちゃんと他人とバウンダリーが引けるようになったきっかけは高校で起きた恋愛関係のゴタゴタなので、母子関係とは無関係かもしれないが。


実は「フェミニズムの政治学」は、この問題に対しても、明確な回答を出している。「フェミニズムの政治学」は、vulnerableな人々の周りに社会が築かれるべきだと考える。そもそも、家父長制によって「家族」みたいな小さなコミュニティに、vulnerableな母親が閉鎖され、社会から見えなくなっていることに問題があるのだ、という立場だ。

子育てする母親は、子供に自分の行動を影響される最もvulenerableな存在でもあるのだから、当然、社会から支援されるべき存在である。子供がケアしなければならない存在ではない。母親と子供の距離が近いのが問題なのではなく、社会が母親をケアしないことによって、子供がその役割に立たされてしまうことが問題なのだ、という発想だ。母親が適切にケアされれば、母親は「別個の存在である子と継続的な関係性を築く」ことができるはずだ、という考え方である。ついでに言えば、障害を持つ母親は特にvulenerableなので、よりケアされるべきだ、ということになろう。まあ私は手がかからない子供だったっぽいので、その分で差し引かれるかもしれないが・・・。

とは言え、これはあくまで理想の社会はどうあるべきか? の話である。じゃあ、自分が、vulnerabilityが過剰に溢れたコミュニティにたまたま生まれてきちゃった時にどうするのか? という問いの回答にはならない。

「フェミニズムの政治学」の中で議論される「母的思考」の中には、「自分の中に、子供のことを憎らしく思う気持ちや、八つ当たりしたい気持ちがあっても、それを抑え込めること」のような概念も含まれる。だが、抑え込めなかった(抑え込まない)母親の元に生まれてきたケースはどうするのか?

幸いにも、僕の母親はその点は優しかった。だが・・・。

「ケアの倫理学」は、全ての人間は弱さを持つという前提の上に成り立っている。にもかかわず、「フェミニズムの政治学」は、どこか、「ケアする人」の強さを信じることに土台を置いた思想だったな、と感じる。

じゃあ、「弱さ」を持つ人しかいないコミュニティで、誰が、その思想を支えられるだけの十分な強さを持つ「ケアする人」なのか? 「母的思考」の役割を担えるのは現実的には誰なのか? そのコミュニティにいる「ケアする人」のリソースを超えて、vulnerabilityが過剰に溢れたコミュニティに、たまたま生まれてきちゃった場合にどうしたらいいのか?

そんなことを最近は考えている。

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※小山さんの話を「ケア」の文脈で語るのもどうなの? という批判もあるだろうし、僕もちょっと思った。けど、この手の話は、「ケアの要求」という皮をかぶることで、自分の暴力性を正当化する、という話なので、やはり「ケア」の観点から語るべきなのではないかと思う。この辺の議論はペックの「虚偽と邪悪の心理学」が面白かった

追記: 感想いただきました。家族の中で起こることの具体例がいっぱいあって、「めっちゃわかる」と思った。


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