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「怒る人」へのセカンドレイプ

ソーシャルグッドの界隈に紛れ込んでから早数年。この界隈には、存外、怒りがモチベーションの人が多いことを知った。

怒りは、外界が自分の欲望に従わない姿を示した時に表出するものであり、いわば理想と現実の間に生じる心の摩擦として現れる。例えば、道を歩いていて、いきなり「ぶつかっておいて、謝罪も無しか!」と怒られた時は、相手は「そちらからぶつかったなら、謝ってほしい(謝るべきだ)」という理想を持っており、あなたの言動がその理想から乖離しているために怒っているのである。

怒りの向ける先が、理想と現実の解離を生じさせている社会的な構造にまで広く取られる時、それはいわば「社会的な怒り」となる。例えば、待機児童の問題は、「社会的な怒り」が見られたわかりやすい例だった。

「怒り」への風当たり

とはいえ、「怒りを表出する人」への風当たりは、基本的には冷たい。「アンガーマネジメント」という言葉がこれほどの広がりを見せるくらいには、怒りを制御できる方が望ましいと思われている。「自制心がない」という呼ばれてしまうように、怒りを無闇に表出する人は本人の資質に倫理的な難がある、と見なされるのが普通である。アリストテレスも、人柄の徳(アレテー)に温和さを上げており、無闇に怒らないことは、古代から現代に至るまで、道徳的な観点から、人間が身に着けるべき気質と見なされているようだ。

もちろん、私だって、無闇に怒ってばかりの人が身近にいれば、良い気分はしない。周りの人が不機嫌だと、こちらにまで不機嫌さが伝わってきてしまうし、こちらも感情的になってしまって理性的な対応ができなくなったりする。職場に不機嫌な人がいると、本人だけでなく、本人の周囲の人の生産性まで下がる、という研究結果もあるらしい。不機嫌さは、本人の幸福を損ねるだけでなく、集団全体の幸福に損害を与えかねない性質だという認識が一般的になりつつある。

「怒る人」へのセカンドレイプ

以上の現状を踏まえての、私個人の最近の感想ではあるが、怒りや不機嫌さを悪とする言説が、あまりにも安易に使われすぎているのではないかな、と思っている。

怒りを表出する人は、当然ながら、そもそもとして何か理想的ではない環境に放り込まれている場合が多い。そもそも現状に不満があるから怒っているのに、怒ったらさらに周りからそれを責められる、という二重苦がある。

・・・ということに特に私が個人的な課題意識を感じ始めたのは、社会に向けて「社会的な怒り」を表現する人にまで、怒りを悪とする言説が向けられ、それを根拠として発言力を削ごうとすることをよく目にするようになったからだ。攻撃的な相手の話の話は聞く気にならない、という素朴な感情は当然認められるべきだし、そこには善も悪もないが、「あの人は怒りを表出する人だから、まじめに話を聞かなくても良い」という言説になると話は別だ。社会的な不正義に怒っているにもかかわらず、「怒っている」というだけで、社会的にその人の発言を無視することが肯定され、その人の課題意識が透明化される。

社会的な不正義に怒っているのに、「怒りの管理不届き」を問われて意見を言う機会を奪われ、自分が置かれている社会的に不遇な状況を公に改善を求める機会すら奪われる、という構造がここにはある。怒りの感情の管理にまでに自己責任論を導入することで、社会的に不遇な状況に置かれている人を、「怒りの感情を自己管理できない人」として、言葉を交わす前から社会的な議論の場から排除できるというロジックで、そもそも自己責任論は社会的に恵まれている方の人にとって有利な言説ではあるが、中でもこれはかなりタチの悪い自己責任論の使われ方のカタチではないだろうか、と個人的には感じるのだ。

繰り返すが、今までその社会問題から無関係だった人からすれば、突然、社会的な怒りに巻き込まれれば、いい気分はしないだろう。だが、社会的な不正義に怒っている人からすれば、それはその人が「その社会的な問題から無関係でいられる特権的な立場にいる」ことの証拠であり、まさにその特権性を問わんとして怒っている。この両者のどちらが正しいのか、ということは一概にはいえないわけだが、普段からご機嫌でいられる人が、社会的に不遇な立場に追い込まれているためにご機嫌ではいられない人に対して、その怒りの背景にある社会的な境遇の差を無視して「怒りの管理不届き」だけを取り出して、相手が悪いと断じることができてしまうのは、やはり、なんというか、あまり善い言説とは言えないように私には思えるのである。

怒りの裏の社会的背景にまで目を向けて

大事なことは、「その人がなぜ怒っているのか?」という社会的な背景にまで想像力を向けるということなのだろう。もちろん、SNSなどの世界には謎の怒りの言葉がたくさんあふれているので、それら一つ一つをまともに受け止めていたら、生きるのがつらくなってしまうし、自分の身を守るための防衛線は必要である。とはいえ、「怒っているから」というだけで、その怒りの理由を想像せずに、その人が公に向けて課題感を表明する機会を奪えてしまうのでは、健全な議論の場とは言えない。

一方で、「社会的に怒る」人には、他者の境遇に巻き込まれつつ、他者との適切な距離をとる、両方の感覚が求められるだろうと思う。別に自分が実際にその社会課題の被害者ではないにもかかわらず、半ばエンタメ的に「怒り」の感情を消費するような人も、世の中には存在する。社会的な不正義に対して憤りを覚える感情は美徳であろうが、できることなら、「自分が傷ついて怒っている」ケースと「他の誰かのために怒っている」ケースを自分の中でちゃんと区別できる方が、本人的にはハッピーであろう。

書籍「フェミニズムの政治学」の中で、著者が「荒野に声を聞く」という言葉を残している。社会的不正義に傷つき、抑圧され、声を上げることもできず、散って行った人たちの声を、「荒野」の中に聞くこと。「社会的な怒り」を受け止めることとは、単に怒りの感情が自分にも伝わってきてしまうということではなく、その怒りの中にある「声」をちゃんと聞くことなのだろうなと思った。


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