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デコった身体こそ、本当のウチ💗 "対人支援"の現象学的分析 ファッションデザイナー/YouTuber millnaさんの事例②

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※【感謝】この記事がnoteの2021年2月の 「もっとも多く読まれた記事の一つ」に選ばれました!ありがとうございます。

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↓以下本編

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この記事は、ファッションデザイナー/YouTuber millnaさんのインタビューの分析の第二回である。

ちなみに第一回の記事(↓)はこちら。

第一回では、millnaさんが重いノリをなぜ避けるようになったのかについて主に分析していった。第二回・第三回の記事では、millnaさんにとって「ファッション」とは何かについて分析を行う。前半にあたる第二回の記事では、ファッションによって表現されるべき"自己"とは何か? を焦点に分析を行っていく。


分析テーマ3: millnaさんにとって「ファッション」とは何か? 〜"自己"編〜

millnaさんはファッションデザイナーとして活動している。彼女の活動が、ファッションを通じて他人に価値を提供するものである以上、millnaさんにとって「ファッション」とは何か?を理解することは、彼女の活動を"対人支援"として理解する上で重要な土台であると言える。

さて、millnaさんは、Twitterのプロフィール画面(↓)に「選べなかった身体、デコって自分にしてこ❣️」というキャッチコピーを記載している。

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次の語りは、このキャッチコピーの意図について尋ねた場面である。この語りを読むことで、millnaさんにとって「ファッション」とは何か? について、分析を進めていくための"着手点"を明確にしたい。

[ブロック1:millnaさんのキャッチコピーの意図 ]
筆者 (millnaさんの)「選べなかった身体、デコって自分にしてこ❣️」っていうキャッチコピーの意図みたいなものを解説いただいてもよろしいですか。
millna まず、ファッションのことを、私は自己表現の手段だと思ってるんですね。っていうのが、変わった服装をするっていうことだけではなくて、流行を追いかけたいとか、人に合わせて目立ちたくないとか、そういうのも含めて自己表現じゃないですか。で、その上で、ファッションっていうのが、生まれ持った身体よりも、「私の身体」だと思うんですよ。身体は選べないけど、ファッションは選ぶことができるので。それで、"選べなかった身体"っていう表現をまず使ってます。で、その、"デコって"っていう言葉がやっぱりキーなんですけど、やっぱり着るとか着飾るっていう表現より、圧倒的に伝わると思ってこれにしていて。やっぱり、ノリを軽くしたいんですよ。原則。

(中略)

筆者 「(ファッションが)生まれ持った身体よりも私の身体である」っていう場合の「私の身体」ってなんだろうなと
millna そうなんですよ、なんか「私の身体」、ここでいう「私の身体」っていうのは、なんていうのかな、皆さんに対する説明なので。みなさんの考える私、あの、みなさんの考えるみなさんの身体、っていう言い方かな。なので、生まれ持った身体よりも私の身体っていう言葉の中で、「私の身体」にだけ括弧がつくんですけど、これ。なんか、それで伝わりますかね、なんていうのかな。私がそう(=私の身体だと)思ってるわけではなくて、あなたたちが言っている身体が、そう(=「私の身体」)なんですよ。私はそう(=私の身体だと)は思わないけど。
筆者 身体概念がずれてるんですよね、ここで。
millna あ、まあそうですね。

まずここで、millnaさんがファッションとは自己表現の手段である、と明確に語っていることに着目しよう。今回の分析では、まず「ファッション=自己表現の手段」という前提を分析の着手点とし、【3.自己表現を、【4. 自己】と【5.表の2つに分解して分析していく。つまり、以下の2つの問いが、主要な分析テーマになる。

問い①:【4. 自己】とは何か?
問い②:【5. 表現】とは何か?

今回の記事(第二回)では、主に、前者の【4. 自己】とは何か? という問いについて分析を行っていく。ちなみに、後者の【5. 表現】については、次回の記事(第三回)で詳細な分析を行いたい。

今回の記事の中で出てくるキーワードと、キーワードごとの関係の概略図を、先に記載しておく。

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【4-1.
自分が何を愛しているのか

millnaさんは上述の語りの中で「身体は選べないけど、ファッションは選ぶことができるから、ファッションは生まれ持った身体よりも、「私の身体」だと思う」と述べている。millnaさんのこの主張は、非常に強烈である。この主張の中で問われているものは、「私の身体」とは何か?という問いだ。millnaさんは、<あなたたちが言っている身体>のことを、millnaさん自身は「私の身体」だとは思わない、と述べる。ここのズレの中にあるものは何だろうか?

次に紹介する語りは、CanCamに掲載されたmillnaさんのインタビュー※1 について、筆者が尋ねた場面である。

[ブロック2: オリジナルの自分]
筆者 (CanCamのmillnaさんのインタビューを)読んでて思ったんですけど、自分が何を愛してるのかってこととか、自分が何を好きなのかっていうことがすごくよくテーマにあがるなぁって思ってて。それはなぜ大事、(中略)なんか、どう大事にされてます?っていう質問をしてもいいですか?
millna どう大事にしてる。いや、なんか、それしか自分が自分であることの根拠ないじゃないですか。(中略)やっぱりそうだな、なぜ大事にするのかっていう以前の話で、それがなんか、生きる意味? やっぱり、私がそうってだけかもしれないですけど、やっぱり他人じゃなくて私に生まれたからには、オリジナルの自分を生きたい、と私は考えるんですよ。やっぱり、自分が何の中で何を愛して育ってきたのか、何を愛しているのか、何を大切にしているのか、っていうのが、なんていうのかな、やっぱり生きる意味? だからやっぱり、私にとっても(それが)大事だし、なんか、それが分からなくなっている人がいるのなら、分かるようにちゃんとする、します。
筆者 そこ、すごく面白いなと思ってて、みんなが好きなものをわかるようにしたい、そこの想いをすごく感じたんですよね。それって具体的にどういう活動でされてるのかなって思って。
millna 私だったら、服の方向性、「着たい服を着よう」って言われたときに、「着たい服を着よう」ってよりかは、私、なんていうのかな、どっちもオッケーと思ってるので。ちょっとこれ話がそれるんですけども、例えば、「自分が何を愛しているのか(が)大事」っていう言葉の中に、「自分は何のことも愛してないよ」っていうことも含んでて、なんか、「私は何を愛しているのかわかりませーん」っていう状態も(中略)、それこそ服の話に一回持っていきますけど、なんか「めっちゃ個性的な服を着ていることが着たい服を着ていることだ」って言われるじゃないですか、これはもう(Youtubeにアップした)動画で話したんですけど、なんかそうではなくて、こう、「みんなと合わせたい」だとか、「流行を追っかけたい」っていうのも、なんていうのかな、自分がどう生きたいかっていうアティテュードじゃないですか。「そうなんだよ」っていうのを言いたくて、でも多分それってあまり言ってくれる人がいない。なんか、やっぱりその、個性的らしい個性的って存在してるし、やっぱり事実として。そう、その中で弾かれてしまう人たち(中略)みたいな、ところに対して私はYouTubeで「そんなことはない」って言うだとか、ふふふ、あとなんか、ま、YouTubeで言います、具体的にYouTubeで言う活動をします。

ファッションは"自己"表現の手段であるが、millnaさんにとって、"自己"とは、生まれ持った身体のことではない。millnaさんは、<自分が何の中で何を愛して育ってきたのか、何を愛しているのか、何を大切にしているのか>が、millnaさん本人にとっては<自分が自分であることの根拠>であり<生きる意味>だと語る。<自分が何の中で何を愛して育ってきたのか、何を愛しているのか、何を大切にしているのか>を、ここでは【4-1. 自分が何を愛しているのか】と名付けておく。

そして、ここでmillnaさんが「自分が何を大切にしているのかを分からなくなっている人がいるのなら、分かるようにちゃんと(※2)します」と述べている。それぞれの人の中にある【4-1. 自分が何を愛しているのか】に気づけるようにすることを、millnaさんの活動の目標の一つとして明示的に語っているのだ。このmillnaさんの活動の目標を【6. 自分が何を愛しているのかを分かるようにすることと名付けておこう。この点は、この記事のおまけ考察で再び取り上げる。



【7. 周囲の目線】と【4-2. 周囲の目線から見える自分

さて、millnaさんは、「みんなと合わせたい」だとか、「流行を追っかけたい」っていうのも、自分がどう生きたいかっていうアティテュード(=【4-1. 自分が何を愛しているのか】の一部)なんだよって言いたい、と語っている。この主張については、実際にYoutubeで動画をアップロードしている。

この主張は、millnaさんが持つ、ファッションデザイナーならではの課題意識をよく表している。この主張について整理しておこう。

millnaさんは、<やっぱり(※3)その、個性的らしい個性的って存在してるし、やっぱり事実として>と語る。事実として、世の中には<個性的らしい個性的>、すなわち、"見た目"に個性的だと分かる個性的なファッションも存在するのだ。個性的なファッションは、見る人に、着ている人の個性を伝える強烈な力を持っている。周囲に合わせた平凡な服を着ている人に比べれば、<個性的らしい個性的>な服を着ている人の方が、当然ながら、個性的に"見える"。ファッションデザイナーであるmillnaさんは、このことを実感として知っているのだろう。個性的なファッションが表現する強烈な「個性」を一度目にした人が「めっちゃ個性的な服を着ることが、着たい服を着ていること」という考えに至るのは、ある意味で、ファッションが持つ表現の力を正当に評価しているとも言える。

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だが、このような世界観の中では<弾かれてしまう人たち>がいる。「個性的らしくない個性」を持つ人たち、すなわち、「みんなと合わせたい」や「流行を追っかけたい」といった好みを持つ人である。

millnaさんから見れば、「流行を追っかけたい」という想いも【4-1. 自分が何を愛しているのか】の一部である。しかし、「流行を追っかけた服」は、個性的らしくないように"見える"ために、周りから「個性が見えない」と評価されてしまう。

このような、【7. 周囲の目線】から見える自分のこと【4-2. 周囲の目線から見える自分と名付けておく。millnaさんはファッションデザイナーであるため、他人から自分がどう"見える"のかを無視できない。

「めっちゃ個性的な服を着ていることが着たい服を着ていることだ」という【7. 周囲の目線】の中では、「みんなと合わせたい」や「流行を追っかけたい」といった好みを持つ人は、実際に自分の着たい服を着ているにもかかわらず、着たい服を着ていないように"見える"。それゆえ、その服の選択が「本当に自分らしい選択」なのか、本人にも分からなくなってしまうのだ

このような【7. 周囲の目線】の中でも、「みんなと合わせたい」という選択が自分らしい選択なのだと、本人がちゃんと分かるようにするためには、【7. 周囲の目線】に対抗するような声を上げてくれる人、すなわち、『「みんなと合わせたい」という気持ちも、自分がどう生きたいかっていうアティテュードなんだよと言ってくれる人が必要になる。millnaさんがyoutubeを通して行っているのはこのような声かけなのだ。このような声かけを、若干詩的な表現になりすぎるが、【6-1. あなたの愛を認める声かけ】と名付けておこう。


事例顔面をピンクに塗るファッション

語りを分析していくと、millnaさんの中で、【4. 自己】の定義が、内面と外見、すなわち【4-1. 自分が何を愛しているのかと、【4-2. 周囲の目線から見える自分の間で揺らいでいることがわかる。

このような、自己の定義を巡る内面と外見の間の揺らぎをより深く分析していくために、millnaさん自身の服の選択についての語りを分析していこう。millnaさんの「顔面をピンクに塗るファッション」を事例に、millnaさんのファッション選択に関する考え方を探っていく。

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[ブロック3: millnaさんのファッションへの反応 ]
筆者 インタビュー前にもらったメッセージで、「私ほど極端なスタイルに憧れる人ってそんなに多くないんじゃないか」って話があったと思うんですけど、これもうちょっと詳しく伺ってもいいですか。
millna あーなるほど、まあなんていうのかな、例えば、私、顔面をピンクに塗ったりだとか、ロリータファッションでもすごくハードルの高いっていうか、ミックスしたような独特のスタイルをぶっちゃけしていると思うんですよね。で、まあ実際休日にコロナの前に原宿を私は歩いたんですけど、街を見渡していないんですよ、そんな服装の人は、みんなシンプルなんですよ。原宿でさえも。(中略)って中で、私のYouTubeを観てる人であったとしても、全員ロリータ(ファッションを着てる)ってことはないと思うんですね。ないと思うし、実際に(Youtubeで)いただいているコメントが、「この人どうしたのかと思った」とか「この人整形しすぎだと思った」とか「最初は引いた」っていうコメントが本当に結構あって、でも、なんか「(動画を)観ていくと、話している内容はなんか分かる話だった」とか、そういう言われ方をすることが実際多かったので。
[ブロック4: 人の目を気にして服を着る ]
millna シンプルに、私はわりとその、人の目を気にして服を着るんですよ。で、そのことを当然だと思っていて。あの、逆の人もいるんですね、もちろん。人の目を気にしてファッションを着るなんてクソ、と言っている人もいるので、いるんですけど、私は逆に人の目を気にしてファッションを着るし、それが当然だと思っているんですよ。だから、私はピンクが好きだし。

millnaさん本人をよく知らない人には意外に思われるかもしれないが、millnaさん自身は「わりと人の目を気にして服を着ている」。millnaさんは<ピンクが好き>だから、顔面をピンクに塗ったりするのだが、それは「人の目を気にして服を着ている」がゆえに「顔面をピンクに塗っている」のである。人の目を気にしていないから個性的なファッションができるのではない。

millnaさん本人は、このような自分のファッションが<独特のスタイル>であり<ハードルの高い>ものである、という認識はある。実際に、「この人どうしたのかと思った」とか「この人整形しすぎだと思った」とか「最初は引いた」といった声がmillnaさんの元に届くことも非常に多いようだ。【7. 周囲の目線】には、しばしばmillnaさんのファッションが奇異に見えることをmillnaさん自身は十分に自覚しているのである。

さて、では、なぜmillnaさんは、「人の目を気にして服を着ている」がゆえに「顔面をピンクに塗っている」のだろうか? この疑問は、後日、追加でヒアリングを行ったので、語りを引用する。

[ブロック5: 他者の目線を気にしているからこそ、顔面をピンクに塗るのはなぜか?]
millna 他者の目線を気にしているからこそ、顔面をピンクに塗るのはなぜかっていう話なんですけど(中略)ファッションの本質って他人の目を気にすることなんですね。私にとって。他人の目がないんだったら、自分の身体とか自分の服って自分では見えないんですよ。だから、自分の身体とか自分の目って、他者が一切いないんだったら、全く重要ではないはずなんですね。逆に。だから、他人がいてこそ、自分の身体が現れてくるし、自分のファッションが意味をなすので、そうですね。
筆者 (前略)それが、顔面をピンクに塗るっていうファッションに収束する理由はなんでかっていうのを聞いてもいいですか?
millna あー、これは、どちらかというと、自己プロデュースの問題で。なんていうのかな、はっきりいって、ピンクの服を着る程度のことでは、(中略)私のピンクに対する愛を表現できないんですよ。なんか(中略)全身をピンクの服でまとめるくらいのことでは、私のこの魂、私の愛を表現しきれない。はっきり言って。っていう時に、じゃあ、この愛が、なんか、メチャ素晴らしい特別なものであることを、どう表現したらいいかって考えると、異色肌ギャル、を拝見して、やっぱりその、肌をいろんな色にカラフルに塗るっていう表現に、私はすごく衝撃を受けたので、「あ、これや!」と思って。この、なにもかもピンクに塗りつぶしたい、なにもかも完璧にかわいくしたいっていう、私の態度、を形にするにあたって、ピンクの服を着るだけじゃなくて、私は肌までもピンクに塗るっていう、その態度は絶対に必須だなって思ったんですよね。

millnaさんの「ピンクの服を着る程度のことでは、私のこの魂、私のピンクに対する愛を表現できない」「なにもかも完璧にかわいくしたいっていう態度を形にするにあたって、私は肌までもピンクに塗るっていう態度は絶対に必須だなって思った」という主張に注目しよう。

結論を端的に言えば、millnaさんの顔面をピンクに塗るファッションは、millnaさんの"魂"である、ピンクに対するスペシャルな愛を表現するための手段だということになる。繰り返しになるが、millnaさんにとって、ファッションは【3. 自己表現】の手段である。そして、millnaさんにとって、【4-1. 自分が何を愛しているのか】こそが、自分が「オリジナル」な存在で、かつスペシャルな存在であることの根拠だった。millnaさんは、millnaさんの考える"本当"の【4.自己】、すなわち【4-1. 自分が何を愛しているのか】を、【7. 周囲の目線】に対しても"見える"ように表現するための手段として、ファッションを捉えているのだ。


まとめ:
「身体のデコレーション」としてのファッション

これでやっと、冒頭の質問であるmillnaさんにとってファッションとは何か? という問いについて答える準備ができた。再びブロック1に戻り、語りを分析していこう。

(再掲)[ブロック1の一部]
筆者 生まれ持った身体よりも私の身体である、っていう場合の、「私の身体」ってなんだろうなと
millna そうなんですよ、なんか「私の身体」、ここでいう「私の身体」っていうのは、なんていうのかな、皆さんに対する説明なので。みなさんの考える私、あの、みなさんの考えるみなさんの身体、っていう言い方かな。なので、生まれ持った身体よりも私の身体っていう言葉の中で、「私の身体」にだけ括弧がつくんですけど、これ。なんか、それで伝わりますかね、なんていうのかな。私がそう(=私の身体だと)思ってるわけではなくて、あなたたちが言っている身体が、そう(=「私の身体」)なんですよ。私はそう(=私の身体だと)は思わないけど。
筆者 身体概念がずれてるんですよね、ここで。
millna あ、まあそうですね。

millnaさんの中には、【4.自己】の定義を巡って揺らぎがある。millnaさんは、millnaさんにとって、【4-1. 自分が何を愛しているのか】こそが、自分が「オリジナル」な存在で、かつスペシャルな存在であることの根拠だと考えているにも関わらず、【4-2. 周囲の目線から見える自分】を無視できない。

ブロック1の語りの中では、「身体」という言葉が複数の意味で使われているようだ。この身体概念のズレについて考えるために、哲学者メルロ・ポンティの言葉を引用しよう。

他の人間は、わたしにとって純粋な精神ではありません。他人の眼差し、所作、発話 ーー  一言で言えば、他人の身体を通じてのみ彼らを知るのです。(中略)他者は私にとって身体にとりついた精神であり、私たちには、この身体の全面的な現象のうちに精神のあらゆる可能性が含まれているように思えます。

モーリス・メルロ・ポンティ「知覚の哲学」 p298-299

メルロの主張の通りであれば、【7. 周囲の目線】から見える「私」とは、単純に、身体としての私のことだ。残念なことに、他人は、私の身体を通じてしか、私の精神を知ることができない。

にもかかわらず、私の生まれ持った身体(の外見)は、かならずしも、私の精神の全てを表現しているわけではない。【7. 周囲の目線】からは、その人が人生の中で何を愛して育ってきたのか、何を愛しているのか、何を大切にしているのかといったことが全て"見える"わけではない。そのため、【4-1. 自分が何を愛しているのか】と【4-2. 周囲の目線から見える自分】の間にズレが生じてしまうのである。

そうであるがゆえに、millnaさんは、「私の身体」という言葉を、カッコつきでしか語ることができない。一般に、身体は、メルロの言うように、精神のあらゆる可能性を表現するはずである。だが、millnaさんの見るところ、私の(生まれ持った)身体は、【4-2. 周囲の目線から見える自分】ではあるものの、【4-1. 自分が何を愛しているのか】を十分に表現するものではない。そのため、millnaさんの【4. 自己】の定義に基づけば、私の(生まれ持った)身体は、十分な意味で「私の」ものではない。身体こそがその人の精神を表現するならば、millnaさんの身体は、millnaさんの魂である「ピンクへの愛」を全身で表現するようなものでなければならないのである。

そのズレを埋めるものとして登場するのが、「身体のデコレーション」としてのファッションである。millnaさんの「ピンクへの愛」をよりよく表現しているのは、millnaさんの生まれ持った肌色よりも、"デコった"肌であろう。このように、ファッションは、その人の身体を"デコる"ことを通じて、その人の【4-1. 自分が何を愛しているのか】を、【7. 周囲の目線】にも"見える"ようにするはたらきを持つ。

哲学者メルロ・ポンティに基づけば、私とは、他者にとって「身体にとりついた精神」である。その意味で言えば、デコった身体の方が、生まれ持った身体よりも、millnaさんの"魂"を宿していることは明らかだ。より「身体」である、とは、その人の"精神"をより表現していることの比喩表現なのだ。

次回

第三回では、【3.自己表現】のうち、後者の【5. 表現】について詳細な分析を行っている。

↓ 他の人へのインタビュー記事はこちら

・犬尾陽子コーチの分析

おまけ考察: 犬尾陽子コーチとmillnaさんの比較

今回の記事では、millnaさんの自己観について詳細に分析を行ったが、これは、以前の記事でインタビューした犬尾コーチの人間観と非常によく似ている。ここで二人の考えを対比することを通じて、millnaさんの考えをより深く分析してみよう。

犬尾コーチは、その人間の本来の価値観・興味関心・好奇心のことを、【本来のその人の可能性】と呼んでいた。そして、それらが、周りからの期待などによって<上書き>されて、本人にも分からなくなってしまうことがあることに課題意識を持っていた。そして、コーチングというアプローチを用いて、クライアントが本来の自分が大切にしていたことを再発見できるように関わっていた。このことを犬尾さんは「本来のその人の可能性を取り戻す」という表現をしている。

対して、millnaさんは【4-1. 自分が何を愛しているのか】が、【7. 周囲の目線】によって、本人にもわからなくなってしまうことがある、と考えていた。そして、youtubeなどを通して【6-1. あなたの愛を認める声】を届けることや、【4-1. 自分が何を愛しているのか】を身体で表現するための手段としてファッションを届けることで、【4-1. 自分が何を愛しているのか】を本人がちゃんと分かるようにすることを活動の目標として掲げていた。

コーチングとYoutubeというアプローチの差はあるが、ここで語られる人間観と支援の目標は非常によく似ている。両者とも、その人の興味関心や愛を、その人を構成する本質的な要素と捉えている(それらを呼び表すのに、犬尾さんは【本来のその人の可能性】という言葉を使い、millnaさんは【4-1. 自分が何を愛しているのか】という言葉を使った)。そして、それらが「周囲」の何らかの圧力によって、本人にもわからなくなってしまうことに課題意識を感じ、それを本人が再発見できるように手助けすることを目標として活動を行っている ※4。

ここまでは二人の共通点であるが、二人の間の相違点として、millnaさんの言う【4-1. 自分が何を愛しているのか】は、犬尾さんが【本来のその人の可能性】と呼んでいるものよりも、定義が広いことは指摘しておきたい。

犬尾さんの仕事はコーチであり、クライアントが【自分で自分の人生を積極的に前に動かす行動】を取れるようになるための支援を行っている。それゆえ、犬尾さんの語る【本来のその人の可能性】とは、基本的には行動を生み出す原動力であり、自分の人生を自分で前に積極的に動かすためのモチベーションとなるものであった。

対して、millnaさんの仕事はファッションデザイナーである。millnaさんは、「その人が、自分が何を大切にしているのかを分かるようにする」ことを活動の目標として語っている。

そしてここが重要な点だが、millnaさん曰く、「自分が何を大切にしているのか(=【4-1. 自分が何を愛しているのか】)が大事」という主張の中には、「自分は何のことも愛してないよ」っていうことも含まれているという。ブロック2の一部を再掲しよう。

(再掲)[ブロック2の一部]
millna ちょっとこれ話がそれるんですけども、例えば、「自分が何を愛しているのか(が)大事」っていう言葉の中に、「自分は何のことも愛してないよ」っていうことも含んでて、なんか、「私は何を愛しているのかわかりませーん」っていう状態も(中略)「みんなと合わせたい」だとか、「流行を追っかけたい」っていうのも、なんていうのかな、自分がどう生きたいかっていうアティテュードじゃないですか。「そうなんだよ」っていうのを言いたくて、でも多分それってあまり言ってくれる人がいない。

例えば、何も気にかけていないファッションが、「自分は何のことも気にかけてないよ」ということを周囲に表現するように、ファッションは「特定の興味関心の欠如」も表現する。「特定の興味関心の欠如」も、自分がどう生きたいかっていうアティテュードなのだ。millnaさんの語る【4-1. 自分が何を愛しているのか】とは、行動を生み出すものではなく、(その人の人生全てによって)表現されるものである。

ここには、この二人の間にある、「主体性」というものに対する考え方の違いがあらわれているように思われる。犬尾さんが"行動者としての主体性"を重視していると思われるのに対し、millnaさんは"表現者としての主体性"を重視している。一般に、「主体性」とは、自発的な行動に関わるものだと思われているが、「表現」という領域においては、例えその場から一歩も動かない大木であっても、「主体性」を持つことがある。"表現者としての主体性"の概念については、次回の分析でより深く扱いたい。

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※1 余談だが、millnaさんのインタビューが掲載されたCanCamの表紙に「自己肯定感」上がるgirlになりたい!? という言葉が掲載されるのはなかなか象徴的であろう。自己肯定感という単語が、「心理」と「ファッション」の接続点として大衆ファッション紙の表紙で使われており、その時にmillnaさんに声がかかる、というのは、それだけでもなかなか考えさせられるものがある。

※2 私の分析観点の話になるが、ここで<ちゃんと>という副詞が使われている点は注目すべきだ。<ちゃんと>とは、「すべきことをきちんと行うさま」を表す副詞である。私の経験上、対人支援者がこの言葉を使った箇所では、「(誰かが)介入すべき点」を示す重要な語りが出てきやすい。今回の語りもこのパターンに当てはまっており、millnaさんにとっては、「その人が何を大事にしているかを分かるようにすること」がmillnaさんの対人実践における介入点になっている。

※3 これも私の分析観点の話になるが、<やっぱり>という副詞も注目すべきだ。「金田一晴彦:日本語の生理と心理」によれば、「やっぱり」は、自分の言うところは一般法則にあっている、その例外ではない、という意味で使われる副詞である。私の経験上、対人支援者がこの言葉を使った箇所では、その支援者が実体験から理解した「その支援がなぜ必要なのかの根拠となる背景構造」や「それ以上遡れないその支援者の根本的な価値基準」を示す重要な語りが出てきやすい。今回の語りもこのパターンに当てはまっており、millnaさんにとっては、「事実として、個性的らしい個性的が存在していること」が、「みんなと合わせたいっていうのも、自分がどう生きたいかっていうアティテュードなんだよって言う」必要があることの背景になっている。

※4 ちなみにmillnaさんのインタビューの後、millnaさんに「語り口とか、使ってる単語とかは全然違うけど、前にインタビューした犬尾さんとめちゃめちゃ同じこと言ってるなと思って」という話をしたところ、「たしかに。なんか、その、感じ取ってる物事は(犬尾さんと)すごく同じ気がしますね。」との反応を得た。



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