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"対人支援"の現象学的分析 犬尾陽子コーチの事例 補足分析

補足分析1:日本とデンマークの比較

犬尾さんはデンマークについても研究されており、デンマークの教育制度を見にいくツアーなどを主催している。文量の都合上で省略してしまったが、犬尾さんの日本に対する観方の語りは、本来は犬尾さんのデンマーク観との比較として語られたので、補足として触れておく。

犬尾 デンマークは全然違っていて、あの親が子供の考えとか上書かないんですね。価値観として。本当にこの子がやりたいことは何かとか、やりたいことは何か、とか、あのー、親と子供は別々の、独立した人間で、ちゃんと一人一人の人権が、公平に保たれていたりする。なので、子供も自分のアイデアをいつでも出せるし、親もそれをちゃんと聞くってことができてるから、そのまんまで育っていくから、やりたい仕事とか生き方が、自分がやりたいことをちゃんと形にしている感じ。

<親と子供は別々の、独立した人間で>という語りからも、親と子供の興味関心が「混ざる」ことが、犬尾さんの強い問題意識にあることが読み取れる。

補足分析2:内面世界の探究における"感覚"の重要さ

[ブロック4の一部抜粋]
犬尾 真実かどうかわからないけど、わたしの中ではわたしは飽きっぽいという風にあの時インプットされている、っていう記憶があるぐらい、本来の自分とはちょっと別の感覚がある、と。

犬尾さんが、母親に上書きされたという<わたしは飽きっぽい>という認識は、<本来の自分とはちょっと別の感覚がある>という。

<ダイビング>において、クライアントは、自分の内面に潜り、自分が「本当にやりたいこと」を探すことになるが、あるものが自分の「本当にやりたいこと」なのかどうかの判定は、このような"感覚"(例えば、しっくりくるか、違和感があるか)によって担われている、という点は指摘しておくべきだろう。この点は、犬尾コーチが"左脳的な"(≒論理的な)観点のみで考えることを批判し、"右脳的な"(≒感情的な)はたらきを重視する点とも符号している。

補足分析3:解決していない感情を整理する実践

本論では、【4. 本来のその人の可能性】への【2.アクセス】を主題に取り上げたため、「解決していない感情を整理する実践」についてはあまり触れなかった。やや冗長になるが、これについても分析しておく。

[ブロック11: 解決していない感情を整理する実践]
筆者 なんかどういったことを試してみることが多いですか?
犬尾 うん、そういったときには、その人が何を知ってるかっていうのを言葉にしてもらいますね。うん。何に気づいているかっていう自分のことと、何を知っているっていう景色みたいな部分と、状況をちゃんと見てもらうっていう、こう視点、見えるものとか、なんかそういうのを出してもらうっていうかんじ。
筆者 へー。たとえば、質問でいうとどういう質問だったりします?
犬尾 ある意味、そのままですよ。あの、たとえば、その人の前に「なになにさんはとても怒り?で表現しているように聞こえます。その怒りは何から来てるというふうに、感じてますか?」とか、「それは自分の中の怒りですか?それとも、外から感じているものの怒りですか?」ということをみていったりとか、「怒りを形にするとどんな形ですか?」っていうなんか、それも形にしてその人の質感を捉えてもらって、じゃあ実はそれが中にあるものだったのか外にあるものだったのか、全く実は存在してないものだったのか、とか、そういうことを考えて話してもらったりします。
筆者 へー、その中にあるものなのか、外にあるものなのか、ってすごく面白い表現だなって思ったんですけど、なんか、どう、中にあるとか外にあるとか、どういったものを指していらっしゃるんですか?
犬尾 なんか中だと、たとえばこう自分に対する不甲斐なさとか、自分のこう存在感が何かこう侵されている感覚みたいな、怒りだったり。うん。外だと、あの人のあの行動がすごく嫌いだ、とか、そういう、外のものに対しての、なにか人間の体の中と外、みたいな分け方。
筆者 存在していないっていうのは、たとえばどういったものを
犬尾 突き詰めて形にしてみてください、とか、質感どうですかっていったときに、たとえば霧のようなモヤのような、ふわっとしたもので実は存在していない何かに怯えていた、みたいなそういうことに、形にしてくれ、っていう問い、をすることによって、何もなかったってなったり。
筆者 へー、なるほど。じゃ、その形にならなかったってことで、何かその相手にとっては、発見があったり
犬尾 発見があったり。そう何もなかったって。お、お化けみたいな感じ、存在してるかしてないかわかんないものに怯えているとか、怒りがあった、みたいな。

解決していない感情を整理する実践について具体的な内容を語る場面。【2-2. 一緒にダイビングする】で取り上げた実践と、クライアントの内面(論理的なものよりも、感情的なもの)の探究という点では、似通っているが、「大事にしたいものの発見」ではなく、「とらわれからの開放」を目標としている点において、違いがある。

「怒りを形にするとどんな形ですか?」という問いが具体例として挙げられる。怒りの<質感>や<形>を尋ね、言語化していくプロセスの中で、<何もなかったってなったり>する。このような問いかけを通して、解決していない感情を探究し、その感情にとらわれなくなることを支援するのが、解決していない感情を整理する実践である。

カウンセリングとコーチングをあえて比較するのであれば、このような関わりは、どちらかといえばカウンセリング的な関わりだと言えるだろう。犬尾さんの語りの中では、このようなネガティブな感情を扱うシーンは、出てはくるもののあまり前面にはならない印象だった。茂木さんのインタビューが 【袋小路にいる感じ】の解説にかなりの割合が割かれたことと比較すると、かなり違う印象を受ける。

補足分析4:なぜ内面世界を知ることが必要とされているのか?

犬尾さんのコーチングにおいては、クライアント本人が、自分本来の価値観・興味関心・好奇心を把握すること、それを通じて、人生のオーナーシップを持てるようになることが目指されていた。しかし、そもそも、それはなぜ、今日の社会において、必要とされているのだろうか?

 このテーマは、犬尾さんのコーチング観を明らかにする、という本記事の目的とは逸脱するが、このテーマについて、今日の社会はどのような特徴を持つ社会なのかについての既存の社会学の議論を援用しながら、考察しておきたい。

カウンセラーやコーチなどの「心の専門家」に対して批判的な文脈にはなるが、社会学者・牧野智和の以下の著書から議論を引用する。

牧野は、ギデンズやバウマン、森真一の議論を整理する中で、今日の社会は、誰もが「自己の再帰的プロジェクト」を生きることを余儀なくされた時代だとまとめている。かなり長くなるが、第1章第4節の内容を、部分部分を省略しながら引用する。

 (略)近代社会では、それぞれの伝統的共同体内部で保持されてきた慣習や伝統が、近代国家の介入や科学的知識の浸透、ヒト・モノ・情報の流動性上昇等によって相対化され、吟味されるようになる。これが「脱埋め込み」である。つまり、「今までのやり方は本当にこれで良いのか? もっといい方法があるのではないか?」というようにである。(略)
 ギデンズは、脱埋め込みの原理が徹底的に浸透した今日の社会においては、自らの行為や関係性、またそれらを取り込む社会制度の自明性が揺らぐことで、自分自身についての一貫した理解(自己物語)もまた揺らぐようになるという。そのため、「何をすべきか? どう振る舞うべきか? 誰になるべきか?」という問い直しが、後期近代の環境に生きる者すべてにとっての中心的課題になるとギデンズは述べる。(略)バウマンによれば(略)私たちにただ一つ残されたあり方とは、「選んでいる人」だと主張するのである。つねに不完全でありながらも、しかしつねに柔軟に自己を塗り替え続ける、そのような自己をめぐる感覚のみが唯一残るのだ、と。(略)
 (略)これらの言及が概して示しているのは、今日において人々は、自らを振り返り、問い直す反省的思考の保持を通して、自己をたえず構成し直さざるを得ないような状況にあるということである。つまり、私たちは自己をめぐる問いについて、「私は○○である」という何らかのスタティックな性質(たとえば学歴、勤めている企業、社会的地位・役割等)の獲得や表現によって解決することはもはや期待できず、一元的あるいは多元的に自己をモニタリングし、問い直し、選択し、再構成し、表現することを通して問いに取り組み続けるという、自己の再帰的変容の「プロジェクト」を日々生きているのだと後期近代論者は述べるのである。

牧野智和 (2012) 自己啓発の時代: 「自己」の文化社会学的探究 勁草書房 pp.10-11

 社会の近代化によって、伝統的共同体は弱体化し、個人が選べる選択肢は莫大に増加した。以前よりも、親や先生、上司の価値観を、「絶対的なもの」と見なす風潮は弱くなっている。我々は様々な価値観を吟味できるようになった。

 それには良い面もあるが、同時に、「何をすべきか? どう振る舞うべきか? 誰になるべきか?」という問い直しが、いつまでも終わらないことをも意味する。

実際に、犬尾さんは、クライアントから寄せられる主訴の例として、「なんとなくの流れで、自分が特にやりたかったわけではないけれども、収入も悪くない職業に就いてしまった。しかし、数年間ほど働き、仕事に慣れてくると、本当にこれで良いのかとモヤモヤしてきたので、考えたい」という主訴を挙げている。このように、「今までのやり方は本当にこれで良いのか? もっといい方法があるのではないか?」という問いが、コーチングというアプローチを呼び起こす、という点は強調して良いだろう。

 このように、現代社会においては、いつになっても、「どのような自己であるべきか?(もっと良い自己があるのではないか?)」という問いが課題になり続ける。現代社会では、誰もが自己をモニタリングし、問い直し、選択し、再構成し、表現することを通して問いに取り組み続けるという、「自己の再帰的プロジェクト」を生きており、その「プロジェクト」の遂行を支援する技法がコーチングであり、その「プロジェクト」に伴走する専門家がコーチである、という解釈はできる。

 このような状況では、自己をめぐる問いに対して「内的に準拠した」、すなわち自分以外の何者にも頼らずに解決しようとする志向が強まることになる。ここで起こるのが、外部から保護され、汚染・抑圧・変形させられていない、無垢な「本当の自分」が隠されているのではないかといった、内的世界の探究の過熱である。これは、(略)後期近代論に即していえば、再帰的な自己構成を支える、「内的に準拠した」、また「強い」資源として、内的世界への注目が増しているのだと理解することができるだろう。(略)関連していえるのが、内的世界へのアプローチ、たとえば「本当の自分」を見分け、「ある特定の瞬間に、多くの可能な自己のうちのどの自己が自分のものかを決める」ための知識・技法を提供する専門家・支援者の浮上である。

牧野智和 (2012) 自己啓発の時代: 「自己」の文化社会学的探究 勁草書房 pp.11-12

 そして、このような「自己の再帰的プロジェクト」の遂行において、他の資源よりも信頼に値する、「強い」資源としてしばしば活用されるのが、クライアントの内的世界である。状況が常に変化し続ける今日の社会において、己の内的世界は、他の何モノにも依存しない「強い」資源として、際立った位置を獲得しているからだ。

 誰もが「自己の再帰的プロジェクト」を生きている社会において、自分と共に「自己の再帰的プロジェクト」を遂行してくれる人、すなわち【5.一緒にその人の人生を作っていくこと】をしてくれる支援者は、ニーズが高まると思われる。(実際、弊社はコーチングを提供している会社だが、そのようなニーズで申し込まれる方は多い。)そして、「自己の再帰的プロジェクト」を遂行する際に頼りにすべき「強い」資源として、自分の内的世界を知りたいというニーズ(広義には、弊社のアセスメントコーチングのサービスが提供しているような「性格特性診断」もこれに含まれるかもしれない)も高まっていくだろうと思われる。

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