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お湯がたまるまでの僕

追い焚きも浴室暖房もないので、浴室の壁面にお湯をかけて浴室内を温めるという生活の知恵をやっている。温度差かなにかで浴室の壁がみしみしと音を立てる。このみしみしがある日に猛烈なみしみしになり、壁面がまるごと崩れ落ちるのではないかと思う。崩れ落ちた壁の向こうには人骨がぶらさがっているか、クリーチャーが襲いかかってくるか、隠されていた次元の扉や何かがあるのがセオリーなので、ドリフのように崩れ落ちたあとの恐怖の展開、を思い浮かべながら壁に熱湯をかけている日々。

「ドリフのように」とは言ったものの、ドリフを見たことはない。これ「慣用句」か「ことわざ」の領域だな。こないだ「エースをねらえ!」を夢中で読んだときも、その世代の「ドッチラケ」や「あんちきしょう」などのフレーズが自然に使われているのがいちいち琴線に触れた。僕より下の世代も、リアルタイムではない世代はすべて古き流行語や時代のずれた常識に「違和感」と「新鮮さ」を感じるのかもしれない。あるあるも移り変わっていく。

「髪を洗っている時になにか怖いことを思い浮かべる」というあるあるについて、僕にはそれがないので特に思うことがない。「部屋に急に犬いて、吠えられたら怖いな。びっくりするし」ぐらいの空想。それぐらい不安がってもどうしようもない想像のように思える。「みしみし」の先に「壁が崩れ落ちる」という想像を働かせるのは「みしみし」が予兆だからであって、地震で弱めの揺れを感じた時に「これこのあと強い揺れが来て、日常が一回全部終わるかもしれない」というのはありえなくはない危険予測。「部屋のなにもないところに突然いぬが現れて吠えてくる」は荒唐無稽な妄想による恐怖。だとしたら「髪を洗っている時に、あなたを見つめている恐怖」はどこらへんにあるのか?

もし壁が崩れ落ちて、そこに骸骨があったり、クリーチャーが襲いかかってくるなとしたとき、まあ骸骨があるのは「ある」として、クリーチャーだった場合そいつに「そこで待ってたの?僕が壁に熱めのお湯をかけて、みしみしの半端ないバージョンによって浴室の壁が壊されるその時を。ずーっとそこで待ってたの?ねえ」という不可解さがある。つじつまが合わないので、いない。ということになる。

世界が、自分のための喜びや楽しみを用意して待ってくれているわけではないように、僕のために待ち構えている恐怖や怪物もいるわけではない。基本的には、人類であるとか、条件に当てはまるものとしての利害関係があるから攻撃してくる、といった仕組みにもとづいて恐怖や脅威は存在しているのだと思っている。



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