見出し画像

とりとめのある、芹沢あさひ・小岩井よつばの成育論(ルソーのエミールより)

下書きがいくつかあった。「フィギュアが開けらんない」という話と「アルストロメリア全員A型、という話の前に知っておきたい血液型論について」という話だった。今ざっくりまとめようと思ったのは「ルソーのエミールから得る消極教育論と、よつばと!と、芹沢あさひの生育環境についての随感」だったので、今日の話のテーマはその数点にばらけながらとりとめなく展開されていくだろう。


・「ルソーのエミール」については、「これから小難しいことを言います。前提として、読む人にある程度の教養を必要とします」というサインぐらいの意味合いしかないので、さらっておくぐらいでよい。親・養育者として「あれをさせる・こういう人にする」が凝り固まって子供を歪めやすいので、大人としてはいろいろ気を付けた上で、自然にまかせていい感じに育ってくれるのが「いい教育」のひとつなんじゃないか、という話。
・人類について発達と成長は「5期」ある。
1.誕生
2.感覚期(快・不快、~13歳くらい)
3.選択期(好奇心、~15歳くらい)
4.道徳期(道徳、市民教育、幸福論など抽象的概念)
5.社会期(教養、結婚)
大まかにある中で、2と3の過渡期にある芹沢あさひと、身近な道徳(黛冬優子)とのやりとりで道徳や社会性をどのように捉えて獲得していくのか。また、どのように表現をしていくのか。ということ。

それらを踏まえて芹沢あさひは家庭においては「まあまあほっとかれている」のかなと思ったという話。裕福かどうか。片親であるかどうか、DVなど破綻要素がある家庭であるか、などの下衆の勘繰りはさておき、「見守る・伸ばす」に注力されていない環境ではあるかなといったところ。

ダンスがすごい、センスがすごい、そのへんの「評価」についての頓着はまったくといっていいほどなく、しかし「注目」についての指向性は結構ある。「ほめてもらえる」についての対価報酬意識や願望はそれほどでもないのだけど、「見ててほしいっす」はかなりよく言うので、注目を求める。庇護願望はある。意図的・半意図的な逸脱をして気を引こうというつもりではないものの、好奇心に基づく自分の行動によって第三者が慌てる・叱る、「教育」というコミュニケーションをとることに「快」を見出してはいるものと感じられる。
つまり野原がボケる、大人をおちょくる→みさえさんにしばかれる、というプロセスは「教育」というコミュニケーションで、芹沢あさひと黛冬優子も「教育」というコントを行っているのである。ストレイライトのプロデュースについては「冬優子なら任せられる」という発言もあるが「疑似家族」や「疑似教育」という図式の学びがかなりある。愛依ちゃん的な見守りと愛情だけでは道徳・教養という点で均衡がとれなくなりうるし、冬優子が過干渉で、絶えずマンツーマンだったら教育者としての機能をしなくなるかもしれない。(教育というコントが、逃げ場のないストレスとヒステリーになる)

よつばと!については、「シングルファザーの心得」でもあり、「母親」という概念はご近所さんだったり、父の友人親戚だったり、社会福祉だったりで「肩代わり」できるのか?という仮題と、それについて理想的なサンクチュアリを用意したものという見方ができる。「母のいない家庭」で、壁の落書きを見たときに、大人は・教育者は・保護者は・家を管理する個人は、子供に対してどう応じて振る舞うべきか。そこにいない「母親」という視点としてどう考えるのかをシミュレーションしてもいいし、あらゆるメタ的な視点から「小岩井よつば」というエミールを観察して、当事者とした場合にどう関わるかを考えさせられるものでもある。

どんなときもぎゅうにゅうだぞ?



・すごくちゃんとまとまった!「とりとめがなくなる」と宣言しておくと、逆張りでまとまりのあることを書いてしまうのだな、僕は。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?