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僕はアンチ外干しの言葉おじさんだよ。

ウソが書いてあった。

物見遊山
ものみゆさん
見物することと遊びに行くということ。気晴らしにいろいろなところに遊びに出掛けることをいう。「遊山」を、「ゆうざん」と読む場合は、山野に遊ぶことという意味になり、「ゆさん」と読む場合は、行楽に出掛けることをいう。

「ものみゆさん」は誤読しやすい、それなりのおじさんでも間違えて覚えて使っていることの多い四字熟語である。「ものみ"ゆうざん"に~~」と言ってるおじさんがかなりいる。その度に僕は、そういう誤読や、ものごとの誤謬をそのままにしていて、かつ自分は正しいと思っているおじさんに対して、「僕より長く生きてきて、きっと僕より遥かに多くの様々な癪に障る感じのマウントを取り続けてきて、言葉の些細な間違いにも気付けずに、しかもその間違いを正すこともないまま、今後誰からの救いの手も差し伸べられない、哀れな人」と思ってしまう。そして僕はこれ僕自身は全く尊大ではなく、僕は僕自身を豚だと思っているので、「こんな豚にさえ、哀れな人だなと思われてしまう、かなり残念な人」という位置づけになる。その人を大事に思っている人は「そんな言葉の間違い一つで、なんて偏見だ。浅はかな豚め。」というかもしれないが、その人の地位とか、その人の妻や子など、そういう人がいるかどうかは関係ない。その人をよく慕う人がいるとして、その人も「慕う、慕えるような側面」しか見ていない。それは僕が見た「愚かで傲慢な職場・社会での一面」しか見ずに哀れに思うのと、変わらない。

上に挙げた偏見と同様に、このimidasを編纂したおじさんの気持ちになって考えてみると、

「遊山」を、「ゆうざん」と読む場合は、山野に遊ぶことという意味になり

この誤った読み方に「これはこういう使い方もあって、読み間違いじゃないんだよ」というような別解を書き添えているのは、「ないルールの追加」「あるルールの歪曲」に感じる。これを編纂した人自身が「こう思ってる」というそもそもの誤りを、「俺がimidasだ、」といわんばかりに(勝手に)定めてしまったのでは?と推察するすらある。

歪曲(わいきょく)と湾曲(わんきょく)も割とよく混同誤用されてますね。


Wikipediaなどインターネットインテリジェンスという完全上位互換に駆逐されてしまいましたけど、2000年代くらいまで「現代用語の基礎知識」という、すっげー分厚い本が「1998年版」とか「2002年版」とかいう形で刊行されていた。

いとこがその本の「名探偵コナン」という項目が、「探偵・毛利小五郎の息子の工藤新一は~~」というようなメチャメチャな解説になっていることを見つけ、メチャメチャなこと書いてますよ~~、という手紙を出したらお詫びと感謝の文と図書券をもらった、というエピソードを20年くらいたった今も武勇伝にしているのだけど、まあ、なんか、それもそれで、ねえ……

という気持ちではある。

僕は本質的に「自分は間違っている!!」という腹をくくっているか、またはそういう開き直りを事前にしているので他人の誤りを目ざとく見付けてしまえるのであって、学のない豚からの意見ですが、ここ多分間違ってますよ、そしてそこを気にせず生きてしまうと、取り返しのつかない滑稽になりかねませんよ、という「さしのべ」、かなり善意なのだが、僕は僕の性質もあってか悪い方にとられがちである。僕を悪者にしていいから、とにかくその誤りに気付けたほうが今後あなたの得だと思うのだけれど。僕は好感度を犠牲にボランティアをしているのだけど。


夕方のテレビ見たんだけど、気象予報で「雨の予報」だと「お洗濯物には注意が必要ですね~」って言ってる。まだ言ってる。「正気か……?」と思う。きっと快晴が続く予報だと「お洗濯物日和ですね~」も言うのだろう。そして視聴者はそれを当然の結び付きだと思って何の疑問も抱かずに生きていくのだろう。もういっかい言うけど「正気か……?」と思う。

僕はキツめの花粉症を持っているのでだいぶ前から洗濯物を外に干すことを愚行だと断じている。狂気の沙汰。「お洗濯日和」はかつての常識、「外干し」の他に手段がなかった時代に流行したワードでしかなくて、ものすごく前時代的な考え方であるにもかかわらず、未だに用いられているもののひとつだなあと思う。

二槽式洗濯機しかなかった時代ではないし、家電も進化しているので脱水の性能も上がっている。洗剤にせよ柔軟剤にせよアホみたいに性能が良くなっている。縫製など衣料品の質も向上している。よく乾くし臭わない。少なくとも10年以上部屋干しをしていて「そうなった」ことがない。「外干し」については定期的に衣類を紫外線にさらして、モノの風化劣化を促進させるサイクルだと思っている。これは自然派ママの思い込み理論で毒物健康食品を作るよりも科学的に理にかなっている「外干し不要論」なのだけれど、普段思っていることを正しく説けば説くほど「なにいってんの……?」みたいに思われることが多いというのがざんない。

IT(通信技術)の30年間の変化、アナログ電話回線からインターネットがFTTHになったりスマホでLTEとか5Gとかになって、テクノロジーの飛躍的な進化と成長を疑わない人ってさすがにいないと思うのだけど(電話が、持ち運べるようになっているので。)、こと生活のことになると、環境や家電など同等に進化と変化をしているということが疑いようがないことなのに、「生活」は激変せず、地続きで微妙に変化していっているからなのか、「外干し」のアナクロニズムや、「お洗濯日和」という概念がまだある。ありつづける。

10年後にドラえもんを読んだ子供が「のび太のお父さんとか、大人の男性は全員へんな棒を常に持っているけど、これはなに?」と、紙巻たばこを見たことのない世代がマジョリティになる。「古い漫画」としてのドラえもんと、原作者不在でも資本主義の都合で新作が続くゾンビ化した「最新のアニメ」としてのドラえもんが同居する歪な世界でもある。

ひげそりでよく言われている「本気を出したらもう改良する余地なんかないところまで行ってるけど、ものが売れなくなるから、一定期間でダメになるものを売り続けている」という俗説を盲信しているわけではないけど、それぐらいいっていると思っているふしはある。

過渡期を生きて過ごしたオタクのおじさんは社会とどう接して何を思うべきなのか。


アルストロメリア"Bloomy!"で、「輝いてる」と韻を踏んでるとこ、なんて言ってんのかな~と思ったら「カルペ・ディエム」だった。急に語彙が溶けるが、やばすぎて震える。「レッツゴー!」とか「カム・トゥゲザー!」とかそういう語感と温度感で「カルペ・ディエム」というワードをぶちこんでくるアイドルユニットおそろしすぎる。深いテーマないと思って聴いてたら急に「メメント・モリ」って言われるぐらいの衝撃のあるワードセンス。

アルストのヤバさについては拙著「アルストロメリアのノルニル論」にもある通りなのだが、哲学と神学と史学をやってときめいていると内臓にくるぐらい色々ぶっ刺さることをしてくるので結論としてはシャイニーカラーズはヤバい。

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