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「宝石の国」イエローダイアモンドの苦しみと仏教

1.はじめに

市川春子さんの漫画「宝石の国」は、宝石という、緒の浜で生まれ、地上で生活をする新たな時代の無機生命体たちが主人公のお話です。無機物でありながら私たち人間と同じように感情の起伏がある宝石たちは、それぞれに苦しみを抱えながら、月からやって来る敵、月人との戦争に明け暮れています。月人は、月の表面に住む者たちのことで、彼らは晴れた日に月から地球にやってきては宝石たちを攫って粉砕し、月の表面に撒き、飾り付けます。この宝石と月人との戦争は既に何千年も続いているようで、フォスが行動を起こすまで、終戦を迎える予兆は全くありませんでした。この戦いに終わりがないということは、月人との戦いはこれからも永遠に続き、宝石たちは次々と体や記憶や仲間を失い続けるということ、宝石たちが永遠に苦しみ続けることを示唆します。これは仏教における、「悟りをひらかない者は輪廻転生の輪から解脱できずに苦しみ続ける」といった価値観が作品に影響を与えているのかもしれません。
作者である市川さんは、仏教高校で学んだことがあるそうで、そこでの経験から「すべてのものが救われる場所においてさえ、宝石たちは救われる対象ではなく装飾にしかならない」という発想を得、「浄土を飾り付けるための宝石を狩りに来る仏たちの話」を思いついたそうです。

さて今回は、宝石たちみんなが大好きイエローお兄さまこと、最年長のイエローダイアモンドについてのお話です。
彼はまだ攫われずに地上に残っている宝石たちの最年長であり、人当たりが良く、多くの宝石たちから慕われています。しかし一方で、彼は自己肯定感がとても低く、自分のことを無能だと思っているかのような発言もあり、闇が深い一面も併せ持っています。
そんな彼は「宝石の国」第10巻において、「自分は月人である」という妄想に憑りつかれ、自分が宝石だという現実を認識すると途端に鬱病のように暗くふさぎ込んでしまうという心の病におかされています。その姿は、まるで何かに苦しんでいるように見えるのですが、一体彼は何に苦しんでいるのでしょうか。
この動画では「なぜイエローダイアモンドが鬱病のようになってしまったのか」、その原因について考察し、仏教的な観点から考えるとどのようなことが言えるのかを考えていきます。

また、この内容を動画にしているのでぜひYouTubeでもご覧下さい。
https://youtu.be/ezPIfYMe_X8


2.ご注意

一、この動画(文章)は、イエローの心の病を中心に取り扱います。現在心身に不調を抱えている方は、イエローの病状にご自身が引っ張られないよう、ご視聴を控えるようお願い致します。

一、この動画(文章)は「宝石の国」最新巻までのネタバレを含みます。

一、この動画(文章)は一個人が考える「この描写はこういう解釈もできるのではないか」という一意見を提示しているに過ぎず、こちらの考えを他人に押し付けることを意図するものではありません。

一、作品の読み手の受け取り方は人によって千差万別です。コメント欄に自分とは異なる意見があっても、「そういう意見もあるんだな」と受け止め、喧嘩や誹謗中傷のないようにお願い致します。

以上の注意事項をご確認の上、次にお進み下さい。


3.イエローが苦しんでいる可能性がある事項

イエローが抱える悩みは大きく分けて以下の3つに分類できる可能性があります。
●1.状況の変化の流れに身を任せていたら、親愛なる先生や他の宝石たちと敵対する構図になってしまい、その結果自分のせいで友人のパパラチアが水銀中毒になったこと。(※実際にはパパラチアはフォスを庇って水銀を受けたので、イエローは自分を責める必要性はないと思われる)
●2.3,000年以上も同じ暮らしほぼ変わらない人間関係の中で暮らしてきたのに、月に移住したことによって環境が劇的に変化し、自分の正体や存在意義に不安や葛藤を抱え始めていること。
●3.自分以外の宝石たちが次々に月人社会に順応していったにも関わらず、自分はなかなか変われないことに孤独を感じたこと。

それでは本編に入っていきましょう。


4.イエローの病状の詳細(アメシストの証言)

まずイエローダイアモンドの現状について少しおさらいしたいと思います。
「宝石の国」に登場するイエローダイアモンドは、生まれてから3,900年以上が経過しており、地上に住む宝石の中でも最古参の宝石です。
「宝石の国」第2巻の時点で、数千年という長すぎる歳月によって、彼の記憶がところどころ曖昧であることは既に明かされていました。
一方、「宝石の国」第10巻において、月に移住した後の現在では、彼は「記憶が曖昧である」どころか、「自分は月人だ」という妄想に取りつかれ、もはや過去を改変してしまっている状態です。
「宝石の国」第10巻において、彼は鬱病のような状態に陥りますが、なぜ彼は心を病んでしまったのでしょうか?その謎に関して、アメシストとカンゴームの会話から原因が断片的に語られています。

①イエローダイアモンドは「自分は月人である」と思い込んでいる。
②その時(=自分が月人であるという妄想にとりつかれている間)は本来のように朗らかだが、自分が宝石であると分かると知るとふさぎ込む。
③彼の病状は日に日に悪化しており、回復の見込みはない。
④イエローダイアモンドの頭の中では、過去の記憶の変形が止まらない。
⑤総合的に判断すると、イエローダイアモンドは220年の内省に耐えられなかった。(自分のせいでパパラチアがシンシャの水銀の毒液をかぶったことに対して自責の念を感じ、それを悔いて220年間もの間内省をしたが、結局その内省に彼の心は耐える事ができなかった、という意味か?※実際にはパパラチアはフォスを庇って水銀を受けたので、イエローは自分を責める必要性はないと思われる)
⑥一時的で私的な幸福が、最悪の事態に対する自責の念を複雑化させた。(「パパラチアを水銀中毒にさせてしまった」という最悪の事態に対する自責の念の上に、毒液から庇われた自分は月人社会で幸福にのうのうと生きていることの罪悪感が絡まることで、鬱症状が複雑化した、という意味か?)
⑦その後、イエローダイアモンド以外の他の宝石たちが月人社会に適応したことも影響した。自分だけ環境の変化についていけないことに孤独を深めたのだろう。

以上の通り、アメシストがイエローの病状とその原因を分析しています。

5.仏教的観点から見た自分なりの考え

この断片的な情報を、「仏教」という観点から自分なりに考察したものを、以下に詳しく書いていきます。雨シストによる上記①~⑦の説明を起点に、以下の3つの要点に絞りました。
1.親しい者への執着による苦しみ(愛別離苦と怨憎会苦)、
2.「自分」という存在に対する苦しみと自己否定(五蘊盛苦-ごうんじょうく-)、
3.変化を恐れることによる苦しみ(諸行無常と空-くう-)


5(1).親しい者への執着による苦しみ(愛別離苦と怨憎会苦)について

まず、アメちゃんの考察から、イエローがふさぎ込む大きなきっかけになったのは、パパラチアが水銀をかぶってしまったことに対する自責の念、であることが示唆されています。
イエローダイアモンドは自分のせいでパパラチアが水銀中毒になったことを深く後悔しています(※実際にはパパラチアはイエローを庇ったというよりはフォスを庇って水銀を受けたので、イエローは自分を責める必要性はないと思われる)。パパラチアはイエローダイアモンドの古くからの友人です。地上にいる宝石たちと、月に移住した宝石たちが戦争を開始した際、パパラチアとイエローダイアモンドは同じ「月人に味方をする宝石たち」のチームに所属していました。地上にいる宝石の一人であるシンシャが、彼の体内から発生する水銀をボルツの足をつかんだフォスに浴びせようとした時、パパラチアは手に持っていた剣でフォスをブンと放り投げ、代わりに自分が水銀をかぶりました。その結果、パパラチアは水銀中毒になり、意識不明の重体となってしまいます。イエローダイアモンドはこの出来事を自分の過ちだと思い込み、220年間も独りで内省しました。しかし、その内省は彼の心を癒すどころか苦しめました。「ああすればよかった、こうすればよかった」と何度悔やんでも、結局彼は自分を許すことができず、ますます自分を責め続けました。
これは、彼が仏教における四苦八苦(生・老・病・死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦)のうちの愛別離苦と怨憎会苦による苦しみとして説明できる可能性があります。
愛別離苦とは、愛するものと別れる苦しみ、すなわちここでは古き良き友人であったパパラチアと別離する苦しみのことを言い、
怨憎会苦とは、嫌うものと出会う苦しみ、すなわちパパラチアを水銀中毒にさせ、地上組を裏切り月人側に味方してジルコンたち後輩の宝石に軽蔑されたように感じてしまい、そもそも過去において月人にパートナーを四人も攫われるがままにしてしまった無能で大嫌いな自分が今ものうのうと生きている苦しみに囚われていることを示しているのではないでしょうか。

このような苦しみは、仏教的に言うと親しい者に対する執着から生まれる苦しみであり、その苦しみを解消するには執着心を捨てることが重要であるとされています。


5(2).「自分」という存在に対する苦しみと自己否定(五蘊盛苦-ごうんじょうく-、無明-むみょう-)について

次に、イエローダイアモンドは自分の過去の記憶を改変し、「自分は月人である」という妄想に取りつかれています。これは、彼が自分の正体や存在意義に対する深い不安や葛藤を抱えていることを示していると考えることができます。
もともと、月人は宝石たちの敵であり、彼らを攫って加工する存在です。かつて自分や自分の仲間と、何千年もの間敵対していた月人に味方をしてしまったイエローダイアモンドは、ジルコンたちと対峙した際、まるで自分が後輩たちから軽蔑されているような被害妄想に取りつかれた可能性があります(※実際には、ジルコンは襲撃戦のあとに月に行ったイエローを案じている発言をしている)。
イエローダイアモンドは自分が月人であるという妄想にとりつかれている間は本来のように朗らかですが、自分が宝石であると分かると気分はふさぎ込みます。これは、彼が自分の正体や存在意義に不安や葛藤を抱えていることが原因であり、その結果彼は自分の本質や価値を否定し、自分以外の存在に憧れや帰属欲求を抱いていることを示しています。仏教的観点から言えば、人の体と心を構成している五つの要素から生まれる苦しみ、すなわち五蘊盛苦(ごうんじょうく)という苦しみに取りつかれていると表現できるのではないでしょうか。

イエローダイアモンドは自分が自分であるという苦しみから逃れるために、「安寧」という結果だけを、手っ取り早く求めようとしたせいで、「自分は月人である」という妄想に取りつかれているのではないかと感じました。

おそらく、アイドルとして活躍するダイヤ、研究者として勤しむアメシスト、料理人として名を馳せるアレキ、アレキの店で売り子として働くベニト、月人とソッコーでスケボー仲間になるコミュ力鬼ヤバ新ゴーシェ、姫として国民から慕われる元カンゴームなど、他の宝石たちが次々に月人社会に順応していく中で、なかなか変われない自分自身や、なかなか変化してくれない自分の価値観に焦りを感じたのではないでしょうか。
3,000年以上もほとんど生活が変わらない環境で過ごしてきたイエローの生い立ちを考えれば、最年長だからこそ、慣れ親しんだ環境を手放して月で暮らすことがより一層難しいものになったのではないでしょうか。
そしてその不安や焦りを手っ取り早く解消する手段として、自分を月人だと思い込むことにしたのではないでしょうか。なぜなら、自分が元より月人であれば、変われない自分が月人社会に順応する必要性がそもそもなくなるからです。だって自分は最初から月人なんだから。
しかし、どれだけ彼が「自分は月人である」と思い込んでも、それは彼自身の無常さや空しさを隠すための妄想に過ぎません。現実には彼の体は宝石でできているのですから、そういった現実逃避的な思い込みが抜本的な解決策でないことは明らかです。仏教の世界観からすれば、修行をすっ飛ばして結果だけを求めて安寧を得ることはできないということかもしれません。
五蘊盛苦(ごうんじょうく)、すなわち自分を構成する精神や肉体という要素によって苦しみ、自分を否定し続けた先で、イエローダイアモンドは「自分は月人である」という妄想に解決策を求めました。イエローにとって自分を構成する要素とは、宝石であること、自分が無能なせいで多くのパートナーを月人に攫われたこと、自分なんかを庇ったせいでパパラチアが意識不明の重体になってしまったこと、などが考えられると思います。
「自分は月人だ」と妄想することで本来の自分を直視できていない彼は、現在自分のアイデンティティを失っているも同然です。本来の自分を直視できていないうちは、自分の本質や自分の本当の幸せとは何なのかを考えることができないため、現在のイエローは自分が進むべき道を完全に見失ってしまっていると言えるかもしれません。

仏教では、無能な自分を否定し、自分以外の存在に憧れることは、自分の本当の姿や幸せを見失っていることを示しています。このような心の状態は、無明(むみょう)や煩悩(ぼんのう)と呼ばれるもので、苦しみの原因となります。

仏教では、自分を否定することは、自分を大切にすることと同じくらい重要ではありません。 仏教では、自分も他人も、同じように尊い存在であると考えます。 自分を否定することは、自分の価値や能力を認めないことであり、自分に対する慈悲(じひ)や信頼(しんらい)が欠けていることです。

仏教では、自分以外の存在に憧れることは、自分の現状に満足しないことや、他人と比較して劣等感や嫉妬(しっと)を抱くことです。 これらは、欲望(よくぼう)や執着(しゅうちゃく)と呼ばれるもので、心を乱し、幸せを遠ざけます。

無能な自分を否定し、自分以外の存在に憧れることをやめるためには、自分の心を観察し、無明や煩悩を見つけて除去することが必要です。 これは、仏教であれば禅(ぜん)や瞑想(めいそう)などの修行によって行われます。 また、自分や他人に対して慈悲や信頼を持ち、欲望や執着に囚われないようにすることも大切です。

仏教では、「中道」を守り、「自利利他」の精神を持つことが求められます。 それは、「自分も幸せである」という感情を持ちつつ、「他人も幸せである」という感情も持つことです。 このようにして、「無能な自分」でも「他人に憧れる」でもない、「真の自分」に目覚めることができます。

そして、月人もまた、苦しみや執着から解放されていない存在として描かれています。エクメアが「エンマ」という名前であることから月の世界は地獄道、もしくは皆が幸福に膿みきっていることから天界の両方がモチーフにされているように思えます。そのため、イエローダイアモンドがもし本当に月人になれたとしても、向かう先が苦しみに満ちている事に変わりはありません。
ちなみに六道輪廻の価値観においては、天界と極楽浄土は異なる世界です。天界は地獄道や人間道とは異なり最もマシな世界として表現されることがありますが、輪廻転生の輪の中からでることはできません。反対に、悟りを開くことによってこの輪廻転生の輪から解脱できた者が行くことができるのが極楽浄土であるという違いがあります。


5(3).変化を恐れることによる苦しみ(諸行無常と空-くう-)について

さらに、イエローダイアモンドは自分以外の他の宝石たちが月人社会に適応したという事実を上手に受け入れることができなかったように考えられます。地上から月に移住した宝石たちは、高度な文明を有する月人社会において、多くの月人たちからの歓待を受け、娯楽の楽しみ方や料理の作り方や高度な科学の研究のやり方を教えられ、それぞれの宝石は月人社会における自分の役割を見出すことに成功しています。
これは仏教では「無常」と呼ばれる現象であると言えるのではないでしょうか。「無常」とは、「すべてのものは常に変化する」という法則をいいます。「無常」を受け入れることは、「すべてのものは空(くう)である」という仏教的な見方のことです。
この「空」とは、「すべてのものは自己性(すなわち、自分だけが持つ固有な性質)を持たない」という考え方です。「空」を理解することは、「すべてのものは他者や条件や因果などに相互に依存しながら存在する」という視点を理解するということです。社会・仕事・人間関係など、今いる環境が変われば人はどんどん変化していきます。文明が発展していない地上で、それまで何千年も同じ仕事にいそしんでいた宝石たちは、月への移住によって大きな変化を遂げています。例えば、ダイアモンドは地上ではボルツへの劣等感にさいなまれていましたが、月ではアイドルになって歌とダンスを披露し月人たちを魅了しています。アレキはかつて地上でクリソベリルを攫われた憎しみを忘れないために月人研究に没頭していましたが、月では彼は料理という新しい趣味を見つけ、大勢の月人に得意の料理をふるまっています。これは、今いる環境・今ある人間関係が変わってしまえば、その人自身も自然に変わっていくことを示しています。このように、「諸行無常」や「空」を理解しないことはすなわち何事も永遠であるという妄想を作り出し、その妄想によって苦しむことになりますが、逆に「空」を悟ってしまえば、それは「執着や苦しみから解放されること」を意味します。
しかしながら、イエローダイアモンドは「無常」や「空」を受け入れることができなかったように思います。彼は自分や他者や世界が変わってしまうことに強い恐怖を覚えたのではないでしょうか。彼の心は過去や未来や現在や幻想や現実など様々な時間軸や次元間で揺れ動きました。昔の彼は、ほとんど変わり映えのない地上で3,900年という長い歳月を経験したことで、どこか心の無意識の領域で、自分や他者や世界が固定されたものだと思い込んでいたのではないでしょうか。
その結果として、「諸行無常」や「空」を悟れず、変化を恐れた彼は、だからこそ執着や執着に起因する苦しみから解放されず今も苦しんでいると考えることができます。


6.まとめ

以上1~3の要素を踏まえると、「宝石の国」第10巻のイエローダイアモンドの病状が描写される場面では、「愛別離苦」「怨憎会苦」「五蘊盛苦」「無明」「諸行無常」「空」「四苦八苦」「三界六道」など仏教的なテーマがモチーフになって描かれている可能性があります。

このように、仏教的な視点は、「宝石の国」のイエローダイアモンドがどういう心理状態にあるかを紐解く鍵になるのではないでしょうか。イエローは、仏教において「無明」と呼ばれる無知や迷いに満ちた心を持っており、それが彼を鬱病へと導いてしまったと考えることができます。このような観点からすれば、彼が苦しみから回復するためには、「智慧」と呼ばれる真理や悟りに目覚める必要があると説明できるでしょう。

市川さんは、仏教的なテーマを巧みに漫画に盛り込んでおり、読者に深いメッセージを伝えています。特にイエローダイアモンドという登場人物は印象的でした。彼が執着や不変といった煩悩を抱えるか らこそ苦しみを味わっている姿がとてもリアルに描かれていたからです。また、普段は陽気な彼が時々見せる闇の部分に私は魅了され、彼が心を病んでしまったシーンは非常に衝撃的でした。私は彼が幸せになれることを願っています。

「宝石の国」において、宝石たちは人間と全く同一の生命体というわけではありませんが、 人間的な感情や思考を持っています 。彼らもまた、私たちと同じように苦しみや執着から逃れられない存在として描かれているように感じます。そして仏教的観点から見れば、彼らは無明であり輪廻の中に縛られている存在なのではないでしょうか 。
しかし、「宝石の国」では仏教的観点だけではなく他の観点からも物語やキャラクターを考えることができるかと思います。例えば、宝石たちの肉体や精神の変化については科学的観点から、また、宝石たちの個性や関係性について心理学的観点から、さらに、宝石たちの社会や文化については社会学的観点から見ることができます。このように、「宝石の国」は多様な観点から楽しむことができる作品になっていると思います。

今回、私は仏教的観点からイエローダイアモンドの心の病について考えてみましたが、仏教ではない他の観点からも、宝石たちが抱える苦しみや問題について考えることができると思います。
もし興味があれば、ぜひYouTubeのコメント欄で教えて頂ければと思います。
それでは、今日はこの辺で失礼します。
ご視聴、ありがとうございました。

※この内容は動画にしてあるのでぜひYouTubeでもご覧下さい。
https://youtu.be/ezPIfYMe_X8


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