生活と演劇のこと

何に対しても、なにか自分の生活の中で中心になることがあったら

沼にハマった、というようなことを言う。

それを中心に生活をして、人生を歩いて行ったりする。
演劇についても、沼にハマった、と表現することがある。

日本の演劇のは、それこそ沼や泥というイメージが強い。
汗臭く、地に這いつくばって、光を求めて、もがいているような、そんな集合体のようなイメージ。

俳優についても、映像に出て、いつでも沢山の人に見てもらえる媒体に出るようになってからが
陽の目を浴びた、なんて言われたりする。
要するに、演劇を、劇場の舞台に立っていた間は下積み時代だと。

もがきながらも、光を求める姿が目の前にあることが、
劇場に足を運ぶ観客にとって、希望になったり、勇気になったり、たまに絶望になったりすることが、
いきている自分と重ねていけたりするような気がする。

ただ、演劇は日本の社会には根付かない。

ドラマというものは、基本的にフィクションとしか捉えられないように作られているから。

私にとってのドラマというものは、フィクションだけれど、いつかの・どこかの・だれかにとってはノンフィクションであると思っている。

それが観る人にとって、辛い体験になるかもしれないけれど、
それを観たことによって、自分1人だけではない感覚ということを共有できて、
その体験を持って、これからも生きていくことができる。というものではないか、と。

辛い体験である必要はなく、楽しい体験だとしても、夢物語は夢物語で収まる必要はないのだと思う。

この目の前にいる俳優は、ありもしない出来事に心を動かされて、舞台の上で生きている。
ありもしないのに、舞台の上で生きることができるということは、
あったとしたら、の1つの見本がここにあるということ。

俳優が感じもしない演技は、物語のためのでっち上げの感情。
見本にはならない。

演劇というものは、どうしても、
ここで、いま、進行してしまう、
というからこそ、成立してる。

それ以外は、べつに、
演劇である必要は無いと思う。

舞台と客席の関係性として、
観客のご褒美として存在する作品もあると思う。
それは、好きな作家の小説を読む、ということと同意義で、
その物語の中に確かに存在する世界の空気感というものを感じにいくのだと思う。
楽しくなりたいから、ギャグ漫画を読む、みたいなことと同じように。

大抵の演劇作品と呼ばれるものは、
そういう物語の中に主張も混ぜて進行している。

だけれど、大抵の演劇作品と呼ばれているものは、
物語を進めることに重心を置きすぎて、
いまここでする必要がなくなってしまっているような気がする。

それがどうも遣る瀬無い。

そして、大抵の日本の観客が求めているものが、それであるということも遣る瀬無い。

大抵の観客、というか、観客になれない人々、というか。
日本人はノンフィクションを求めていない。
直視することを恐れて、生きているけれど、生きてはいけていない。
進まずに、ずっと同じ場所に居続けたいと思い願っているように感じる。
気付きたくない、知りたくない、わかりたくない、死にたくない。
死ななければいい。

今じゃなくても、心を過去においていたとしても、
生命として、不幸せでなければ、仕方ないという風に。

だから、今ここで起こることなんて、できれば出会いたくない、出会う必要がないのだと思う。

それでも、演劇は必要だと、言い続けたい。
絶対にとは言わないけれど、今、が私は必要だと思うから。

しっかりと今を生きたい。

最初の話に戻るけれど、
沼にハマるということは、自分の生活をも侵食して、それを中心に生きるようなことの気がする。

それのために生きる。

好きなもの、としては、それが生きる糧になったりするから、それもまた、必要な沼なのだと思う。
生きていかなくても、まずは生きなくてはならないのだから。

だとしても、
演劇を沼にたとえて、ハマってしまうのは、本末転倒だと、私は思う。

演劇は今ここでしかできないのに、
今ここで生きていけなくなるのだ。

自分の今を直視せずに、演劇、作品を上演することだけ考えて、
生活をおざなりにしてしまったら、
その作っている本人は、今を生きていないのに、舞台上では今を生きているようなフリをすることになる。

生きていない人が、舞台だけで生きているように見せても、
実際は生きていない。うそっぱちなのだ。

職業として、演劇をするならば、
自分の生活を最低限以上に生きていなければならない。

生活の中に演劇は存在しているのに、
演劇の中に生活が存在していないなんて、
あってはならない。

演劇の沼にハマってしまっている気分で生きていると、
肝心の今を生きるということができなくなってしまう。
今を生きるという感覚が鈍って、フィクションに走ってしまうのだ。

全てが想像で、全てがありえないことになってしまう。

演劇はそうあるべきでない。

汗臭く・泥まみれに見えても、
それは、演劇のために生きているからではなく、
演劇とともに生きているからであってほしい。

あるべきだとも言いたい。


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