その(1) 聖者のまなざし 11月3日(月)

家のひとにさそわれ、「聖者たちの食卓」という映画を観る。@渋谷UPLINK。


インド北西部にある、シク教総本山。ハリマンディル・サービブ(黄金寺院)のランガル(共同食堂)では、シク教の「宗教・カースト・肌の色・信条・年齢・性別・社会的地位に関係なく、すべての人々は平等である」という教義にもとづき、毎日10万人分もの食事が無料で提供されていて。セリフもなく、ナレーションもなく、その料理/食事/食器洗いなどの風景が淡々と映しだされるドキュメンタリーだ。監督は、自らもキッチンで腕をふるうベルギーの料理人・F.ウィチュスと、V.ベルト夫妻。

16世紀から今もなお、500年近く供され続ける《聖なる食卓》。シク教徒だけでなく、巡礼者や旅行者も利用できる。ランガルは入れ替わり式で、一度に5000人が会し、皆、同じものを食べる。豆カレーやチャパティ、おかわりは自由だが、残さないこと。神がつくり、神が食べ、神が洗う。そこに身分の差はない。教義に「みな平等であり、共に生き、尊敬しあう」という根本原理が貫かれているからだ。

この《聖なる食卓》は、300人のボランティアの方々が支えていて、すべて手作業である。そのかれら、彼女たちひとりひとりの凛とした、たたずまい。慣れた、ときにユーモラスで楽しげにみえる、美しい無駄のない所作。循環の奔流。画面から、伝わってくる、しずかな精神。日々無言で繰り返され、営まれる思想。「平等」「戦争への拒絶」への強い意志。いまだかつてみた、どんな反戦映画よりも、それを感じさせ、胸に迫りくるものがあった。

観終え。渋谷の雑踏をぶらつきながら。家のひと(=小説書き)と、感想などぽつぽつ、かたりあった。内容と共に、映像のバックに流れていた緻密に創られたトランス的な音楽や小さな声についての、家のひとの話を聴きながら。やあ、気持ちよいなあ(うとうと…眠)などぼんやり身を耳をゆだねてた、自分とエラいちがいだな、と思った。わたしをすりぬけていってしまう様々なことやものを、かれは感受して、つきつめて考えていることがよくある。
(村野四郎『亡羊記』の後書を今一度、おもいだす。)

この映画の中で、とくにわたしの、印象にのこったのは。
カメラを向けられたとき、それを見つめる、というか《まっすぐにみかえす》、料理をする/めっちゃでかい鍋を洗う/寺院のなかでたたずむ/すわる、在る…、かれら・彼女たち一人一人の《まなざし》だった。笑顔をむりやり作るひとも、おちゃらけるひとも、卑屈な表情をうかべるひとも、一人もいなかったのだ。ただ、映してるひとに/カメラに、目をやる。いかなる自意識にも囚われず。媚やけれんみ、などとは無縁の《まなざし》。このまっすぐな《目》に、打ちのめされた。

その目。そのままであること。「そのままでよい」ということ。すでに、ゆるされている、ということ。「ありのまま」を、恐らく、わたしなどとは、はるかに違う次元で体得している、かれらの心のありようが、猛烈にまぶしかった。

カメラを向けられたとして。多分、わたしなら、少し照れつつも好感度をあげようと、あいまいな笑みを浮かべてしまうのだろうな...と思った。そしてうまく、たたずめなくて、なやむだろう。もうそこには、そぼくな「わたし」なんてものは、いないのだ。

ここには、この映画の中には、わたしが失った、というか、まだ一度も得たことすらない、神々しい《まなざし》があって。それに気づいたわたしは、とてもかなしく。けれど、この世にそういうものが確実にあり、それをまのあたりに出来たことが、うれしかった。

その《まなざし》を、こころの在りようを、いつの日かきっと得たい、と切実にねがった。




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