いかりについて。

ひとは、どんなことで、怒りを覚えるのだろう。
いいえ、自分は。

振り返ってみると、「ぜったいに許すまじ!!」と、えらい怒気をはらみ。ひとにつめよって怒ったことは人生で(今すぐ思い出せるのは)、二回。

本気で怒ると、冷静に、なぜその発言がおかしいのか、なにを侮辱してるのか、その思考回路、思想、言葉遣い、などの矛盾を徹底的に、攻撃しつづけてしまう。自分がされたらかなりイヤです……(きっと泣く)。

考えてみると。いやなことをいわれたり、かなしいことをされたり。自分が傷つき、くるしみ、ダメージを受けたことはたびたびあった。けれど、一番沈んだときでも、(死のうかな……)とは思ったけど、相手につめよって怒ったり、攻撃することはなかった。自分が侮辱されたとかんじても、自分だから、そこまでは怒りにならないのかもしれない。そんなに自信満々なわけでもないので、なにか自分に非があったのかな、それはなんだろう?など、自問自答したり、まず考えてしまったためかもしれない。

先にのべた二回。自分が相手に直接、攻撃的な言葉をなげつけたときの共通項がある。それは――
自分が、本当に大切に思っている、作品や、人を。へんな言葉でおとしめられたり、バカにされたり、侮辱されたと感じたときだ。

もう、はるか昔のことですが、ひかれること覚悟で、ひとつめをかきます。

短大芸術学科のとき。小さな秋の文化祭的なものが開催されることになり。なぜか、実行委員と云う名の雑用・世話役(クラスから2名)に選出されて、その「秋の文化祭企画実行合同ミーティング」に出ねばいけないことになった。その会合、第一回に召集され、会場の教室へ行った。各学部・クラスの実行委員たちが集合して、ざっと50人くらいはいただろうか。

其処へ入ってきたのは、この秋の文化祭企画、実行運営を一任されたのであろう、A教授。たしか美術史かなにかの先生。この文化祭がどういう主旨・催しなのか、期間などの説明をうけ、なんかぬるい企画だなあ、などぼんやり思いながら聴いていたのだけど。そのさまざまある小企画のなかの「ビンゴ大会」に話しが及び、そのA教授が、もう決定しているという、ビンゴの賞品の紹介をしはじめた。
「色々、すごいものがあるんですよ。たとえば、彫刻家のBさん(わたしたち芸術学科のうち、実技で彫刻専攻の生徒はそのBさんに習っていた)の彫刻作品!! これ、ものすごい価値ですからね。たとえば転売したら何十万か…何百万かいくらになることか…。欲しいでしょう?云々…」

そのせりふを聞いたとき、あぜんとした。
「は? お前、ちょっ待てよ」。ばかなの?

他の学部の生徒はしらんかもしれないが、そのB先生の作品は、ほんとうにすばらしいのだ。B先生の、「でくのぼう」という木彫作品をみて、ないたこともある。いかにもチンチクリンな…足と腕が、ひょろっと長くて、あたまがめっちゃ大きくて。けど、そのでくのぼうがなんとも溌剌として、うれしそうで、生きる喜びに満ちていて。
世界に存在する、あらゆるでくのぼう的なるもの、存在へのあたたかなまなざしが。慈愛の感情が、見てるだけで溢れてくるような。それは、大いなる赦しだった。

B先生は、人柄はへんてこだが、まっすぐ、温かで。芸術学科の生徒たちは、みんなB先生の作品も、人も大好きだったのだ。
それを、A教授に、いきなり、転売すればどうのこうのとか言われて。もう、頭に血が上って、そのあとの話は、まったく頭に入ってこなかった。

ふと気づいたら、文化祭企画・実行会議はひととおり内容説明をされたようで、さいご、A教授の「何か、質問や意見あるひとは、どうぞ遠慮なく来てくださいね。」という、にこやかな挨拶でおわった。

真顔で、まっすぐA先生のところへいった。

あの発言は一体何なのか。B先生がきっとやさしい気持ちでビンゴの賞品として生徒のためにささげてくれた、芸術作品をつかまえて、転売すればいくらだとかなんとかは、どんだけ冒涜なのか。仮にも美術に携わる人間ならば、まず芸術の価値、魅力を伝えるのが先でしょう。お金とか、そういうことがどうしてもいいたかったら、それをしてから最後にいうとか、そういう心遣いはないのか。あと、笑わせようとかしたのかもしれないけど、ジョークとしても、全然面白くもなかった。

など、淡々と述べ続けた。
「質問ではありませんが、以上です」

A教授は、うつむきぎみに、
「そんなにばかにするような気持ちではなかった、気に障ったのならもうしわけなかった」
というようなことをぼそぼそいった。

わたしこそ、ちょっといやかなり、いいすぎた、ごめん、と思った。大人気(おとなげ)なかった。実際、こどもだったのだけど。

だがしかし。
いまでも、思い出すと。
みずみずしく。かなしくなる。

わたしにとっては、
とてもたいせつな、ものだったんだよ。


*註:時世なので関連づけられるかもしれませんが、自分の「怒り」について考察しただけで、暴力・殺人行為を容認しているわけでは、けしてありません

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