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もっとも長く、ナーヴァスな1日

ずっと畏れていた。この日を迎える事を。


第49期前期最高位戦D3リーグ最終節。応援する梶田琴理の通算10度目のリーグ戦の幕が下ろされる日。前回48期後期のリーグ戦で彼女には降級点が付いてしまった。何故降級ではなく「降級点」なのかと言えばそれよりも下のカテゴリーが無いからだ。降級点の付いた選手が再び下位に沈めば、プロテストの再試験を受けなければならなくなる。

彼女はプロになって丸5年が経とうとしていた。一度も昇級する事の無いままプロテストの受け直し。これほどの屈辱があるだろうか。言うなれば団体から「あなたはプロに相応しいか疑わしいのでもう一度確認させてくれ」と言われているようなものである。

麻雀は運に左右されるゲームだ。ネット麻雀天鳳の世界では「5000戦は挨拶」などと言われる。それほど短期間では実力を推し測る事が困難なのだ。リーグ戦は1節半荘4試合。それを5節行い、昇降級が決まる。たったの20試合だ。どれほど剛の者でも集中的な不運に見舞われれば一巻の終わりである。だがそれが競技麻雀なのだ。試行回数の少なさを言い訳にする者はこの世界に入って来てはいけない。彼女自身もその事は当然理解している。幸運が巡って来た時にそれを逃さず、不運に見舞われた時にそれを最小限に抑える技術を身に付ける事が競技プロの仕事なのだ。

ただ彼女はその仕事に集中出来ずにいる期間が少なからず存在した。積み重なった敗北の数々が彼女の心を蝕み、麻雀への歓びを奪っていった。48期後期のリーグ戦後、同じく降級点の憂き目にあった選手と酒を煽り、帰宅後独り悲しみに暮れ、涙に濡れる。


また駄目だった。一体いつになったら勝てるんだ。


技術的な進歩をしている自負はあった。基礎雀力の向上は勿論、微細な損得についても考えを巡らせる事が出来るようになり、自分の世界が広がって行く実感も持っていた。参加していた勉強会で同じ団体の先輩である浅井裕介からもそれは認められていた。思い上がりでは無い。

それでも、結果だけが付いてこない。


この頃、彼女は遅刻する夢をよく見るとX上で漏らしていた。私は心配になり、その夢が表す深層心理を調べた。決してポジティブな意味合いでは無いという事を予め覚悟はしていた。だがそこに出てきた答えはその覚悟を上回る程で、救いが無かった。


余裕の無い精神状態であるという事はとっくに感じ取ってはいた。でもその心配が思い過ごしである可能性を心のどこかで信じていた。だがもうそんな希望的観測をする事は出来ない。彼女は明確に追い込まれている。寄り添わなければならない。慮なければならない。彼女の心の裡に。


応援してくれる人もいるんだ。頑張らなきゃ。


でも、何も結果を出せないまま33になってしまった。若くて強い人もカワイイ子もどんどん出てくる。


もう間に合わない──



前向きな自分と後ろ向きな自分が交互に顔を出し、計り知れない葛藤とジレンマを抱え、時に休みながらゆっくり、ゆっくりと歩を進める。そんな彼女にどんな言葉を掛けるべきなのか。或いはそっとしておくべきなのか。次こそはきっと昇級出来るから頑張ろうなどと言える筈も無い。彼女はその「次こそ」をもう8度も繰り返してるのだ。だからと言っていつもSNSで彼女の事を発信している私が何も発しなければ、一向に勝てない彼女を見限ったように見えてしまうかもしれない。本人からこれまで何度も応援に対する感謝の言葉を受け取って来た。見捨てられたなどとは思わせたく無い。X上で彼女に関するポストをし続ける事でひたすらに愛情を表現する。私には麻雀プロ梶田琴理が必要だと。

ちっぽけな勇気でも良い。彼女の背中を押せるならば。ずっとぴっぴぴっぴと言っていれば、誰かが自分も応援したいと思ってくれるかもしれない。女流に熱を上げるおかしな奴だと思われても良い。

彼女に何かを与えられるなら、私はピエロで構わなかった。


昨年末、久し振りに彼女のゲスト先のBARに顔を出した。何度も会っている内に、出会い頭の表情で彼女の心理状態が凡そ推測出来るようになっていた。この日の彼女は迷いの森の中に居る様だった。表面上は明るく振る舞ってはいるが、それが空元気であると直ぐに察した。

共に彼女を応援して来た方、私を触媒にぴっぴに会いに来てくれた方と共に麻雀界の話題で一通り盛り上がる。彼女もよく笑っていた。そこで私はこのタイミングならと「どうですか?麻雀の方は」と尋ねた。するとそれまで明るく見せていた彼女の表情は急激に曇り、寂しそうな顔で溢した。


「モチベーション保てる人は、凄いなって思う」

考えていた通りだった。降級点を取ってしまった後、私の目には彼女が悔しさを感じている様には見えなかった。おそらく本人はそんな事は無いと反論するだろう。しかし、彼女が悔しさだと思っているその感情は、実は悲しみなのだと私は思っていた。悔しさはバネになり、モチベーションを与える。しかし悲しみはその人からモチベーションを奪う。9期連続での昇級逃しと降級点は彼女を悲しみのどん底へと叩き落としたのだ。


そしてこの日から私の恐怖の日々が始まる。通算10度目のリーグ戦でもしも再び降級点を取れば再試験だ。その屈辱と悲しみに果たして彼女は耐えられるのか。麻雀プロを続ける事を諦めてしまうのではないか。


私は彼女を失うのではないか。


年が明け、彼女のゲスト先に足を運んだ方から話を聞く。今年の目標は女流最高位と天鳳で八段になる事だと語っていたらしい。私が会ってからまだ間も無いにも関わらず、とても前向きな答えだ。ただそれはリップサービス、虚勢だと感じられた。私は彼女が参加する勉強会での麻雀も全て観ていた。そして私が観ている事を彼女は知っている。停滞しつつある自分の麻雀を観られている私の前で虚勢を張ってもそれを見抜かれると考え、私には本心を話してくれたのだと思っていた。いや、そう思いたかった。

ぴっぴファンになって2年が過ぎていた。その間の少なくは無い期間、彼女は私に対して申し訳なさや後ろめたさを感じている様だった。結果が出せない事、天鳳を殆ど打っていない事、期待される程麻雀に真剣に向き合えていない事を理由に感謝や応援して欲しいと伝える事が出来なかったと謝罪された事もあった。私は凡そ2年に渡って彼女の2つのアカウントに天鳳の有効期限を贈り続けていたが、それを止めた。プレッシャーや後ろめたさを与えてしまっていると強く感じる様になったからだ。勿論私自身が天鳳プレイヤーである為、彼女が打ってくれるのは嬉しい事ではあった。ただ彼女にとっては天鳳は強くなる為の手段であり、目的では無い。麻雀に向き合ってくれさえすれば方法論は何でも良かった。彼女の心に掛かる負荷を少しでも軽くする為、贈答を諦め天鳳に関する話題を極力彼女に振らない様にしていた。完全に引退した訳では無いが、現役の天鳳プレイヤーとは言い難い打数である事も事実だったからだ。

更に懸念していたのは私が筋金入りの魚谷侑未ファンであるという事だった。女流プロの頂点に立つ選手を新人の頃から応援して来た人間にその後継者として指名されるのは客観的に見てもかなりの重圧だ。魚谷侑未はプロ麻雀界における努力と研鑽の象徴であり、同等のモノを期待されれば、彼女なりに頑張っていたとしても、自分はまだまだ足りないと思ってしまう。彼女自身も魚谷侑未に対し強い憧れを抱いているから尚更だった。しかしモチベーションが低い時期も完全に努力を止めてしまった訳では無かった。休日に単発で競技セットを行う等申し訳程度ではあるが前進はしていたし、天鳳の個室を用いた勉強会も継続していた。最新の戦術本に積極的に手を伸ばしてもいた。ただ如何せん比較対象が他ならぬ魚谷侑未だ。胸を張って麻雀頑張ってますと私に言えるはずも無かった。

応援する側にもされる側にもジレンマや葛藤がある。私は自分が彼女に負担を掛けるファンなのではないか、多くを求めすぎなのではないかと長い間悩んで来た。私には麻雀プロに求める高い理想がある。しかし彼女は理想では無く、麻雀プロとしての現実の中を生きている。彼女の心に寄り添う事を優先し、凡そ15年に渡り貫いて来たプロ麻雀ファンとしての信念を曲げるべきなのか。それとも彼女の下を去るべきなのか。応援する選手が所属する団体の他の選手は応援しないというポリシーも持っていたが、それは却って負担を掛けるのでは無いかと感じる様にもなっていた。魚谷さんは格が違うからと除外した上で「私を単推しだと言ってくれる人は少ないからとても嬉しい」と言って貰ったにも関わらず、同じ団体に所属する佐伯菜子プロに声援を送り始めた。それでぴっぴに掛かる負担を半減出来ると思ったし、私自身の心に掛かる負荷も軽くなると思った。何より佐伯菜子プロは真面目でとても優しく聡明で献身的な人であったし、彼女自身も私に応援される事を望んでくれていると感じていた。ゲスト先に会いに行き、そして翌日noteを書いて公開した。

その日の深夜、途轍も無い罪悪感が私を襲った。ぴっぴを裏切ってしまった。自分が努力を怠るから愛想を尽かされ「推し変」をされたのだと思わせてしまったかもしれない。大切な大切な選手である彼女を傷付けてしまったかもしれない。気が狂いそうだった。

当然、佐伯菜子プロには何の罪も無い。複数の選手を応援する事が罪な訳でも無い。それでもぴっぴに対する後ろめたさを拭い切る事は出来なかった。可笑しな話だ。私と彼女は互いに後ろめたさを感じながら応援し、応援されている。そして私はプロ麻雀の世界を生きる女性の中で最も結果を出している選手と最も結果を出せていない選手を同時に応援している。受け入れるしか無い。プロ麻雀ファンとしてのこの数奇な運命を。


1月某日、彼女は赤羽にあるmonoというお店のゲストに入った。ぴっぴを応援するようになってから繋がりを持ち、毎日の様にやり取りをする2人がそこを訪ねた。同卓した際、彼女はトップを取った。すると彼女は「今日永世さん誕生日だから永世さんに捧げるトップ」と言っていたと伝えられた。

私は地方で暮らす麻雀ファンで、取り立てて彼女の役に立つ事が出来ている訳では無い。それでもこうして気に掛けて貰える事は本当に有り難く、そしてホッとする。マイナス思考が過ぎるかもしれないが、迷惑なファンでは無いのだなと思う事が出来る。ゲスト先に顔を出し、役に立ちたいという気持ちと、モチベーションが下がっている彼女に会ってもなんて声を掛けて良いか分からないという考えが交錯し、暫く彼女に会うのを躊躇っていた。

モチベーションの低下は結果が出ない事に起因している為、リーグ戦開幕までの間にそれを大幅に回復させるのは難しい。選手との距離感を間違えた馬鹿なファンのフリをして飲みに誘ってみたいと考えたりもした。心の中の迷いや苦しみを一度全部吐き出さなければ、彼女は前に進めない様な気がしていたからだ。プロ麻雀界に詳しく無い友人に話しても理解され難く、同業者は大変なのは自分だけでは無い故愚痴を溢すのは憚られる。別に私じゃなくても良い。誰かが彼女の心を軽くしてさえくれれば。


そんな事を考えている内に時は流れ、彼女の運命を決する事になるかもしれない49期前期のリーグ戦が開幕する。開幕節の緊張感は何度経験しても慣れない。今期こそは幸運に恵まれますように。彼女が悔いを残しませんように。最高位戦の速報を待ちながら、落ち着かない時間を過ごす。スコアがプラスならば安堵し、マイナスなら胸が締め付けられる。1戦毎に感情が起伏する。1節目は+71.3ポイントと上々のスタートとなったが、まるで油断は出来ない。試合数が多く残っている事もさることながら、今期から地方リーグのスコアも合算される事になり、昇級がこれまでよりも困難になったからだ。それでも2節目もスコアを伸ばし、彼女のトータルポイントは+99.9となっていた。

5月、世間がゴールデンウィークを謳歌している最中、繁忙期の仕事に追われていた。丸一日の休みを取る事が難しく、なんとか半休を勝ち取り久し振りにぴっぴに会いに行く。通常リーグ、女流リーグ共に好調だった為、今なら前向きな彼女を見ることが出来ると考えたからだ。店に入るととても明るい表情だった。昨年末の空元気とは明らかに違う。

リーグ戦での出来事や直近の麻雀の内容に関する話をしながら2時間程を過ごし、店を後にする。帰り際、最近のゲスト業での集客について尋ね、以前よりも固定客が付いている事に安堵した。麻雀で結果が出て、集客が安定すれば、彼女はまた麻雀に対する歓びを取り戻す事が出来るはず。モチベーション高く雀力向上に邁進するにはどうしてもそれが必要だった。彼女に欠けていたのは自らのキャリアが前に進んでいるという実感と麻雀プロとしての自分が必要とされているいう自信だった。


5月4日、リーグ戦第3節で54.6ポイントの加算に成功し、昇級への手触りがありありと感じられる様になる。昇級ボーダーが高い故、残り試合を安心して打てる状態では決して無かったが、降級点という最悪の事態は避けられそうになっていた。続く第4節では+66.3ポイントを叩き出し、トータルポイントは220.4まで伸び、昇級ボーダーとの差は100ポイントを超え、いよいよ昇級に王手をかけた。

ほぼほぼ大丈夫だろうという楽観的な考えと、もしもここから昇級を逃したら彼女は立ち直れない程のショックを受けてしまうという悲観的な考えが頭の中を駆け巡る。どれほど応援の気持ちを持っていても、一緒に戦う事は出来ない。こうなったらまな板の上の鯉だ。最終節の前日、普段から利用しているスーパーへと足を運び、アルコールコーナーでとりあえず一番高価なビールを手にする。ぴっぴはきっと勝つ。そしてこれで祝杯をあげるのだ。


6月30日、最終節の朝を迎える。この日も普段と変わらず午前6時前に起床する。起き抜けに煙草に火を点け、今一度昇級ボーダーとの差を確認する。大丈夫、ぴっぴは勝つ。

午前7時前、職場へと到着する。対局開始まではまだ時間がある。無心で午前中のタスクをこなす。お昼前、スマートフォンにぴっぴのポストの通知が届く。やってやれ、大丈夫あなたは勝つ。想いを込めていいねを押す。

午後に入り、仕事が立て込む。スマートフォンに触れる事が出来ない。きっと大丈夫だ。心配を振り払う様に目の前の仕事をこなす。

夕刻に入る。まだ仕事は終わらないが、ようやくスマートフォンを手にする。最高位戦の速報通知が来ていた。どうやら2戦目まで終了しているようだ。恐る恐るそれを開き、順位表の中から梶田琴理の名前を探し出す。1戦目は3位、2戦目はラスで55.1ポイントを失っていた。急に背筋が寒くなる。ボーダーラインとの差を頭の中で計算する。既に50ポイントを切っている。ここから更に逆連対を繰り返せばあっという間に陥落する。

鼓動が速くなり、目に涙が浮かんで来る。もう祈るしか無い。


神様お願いだ。ぴっぴを勝たせて下さい。


勝手なものだな、と思う。普段信じてもいないくせに、こんな時だけ神様にお願いしたくなる。

一度冷静になり、ポイント差を見つめ直す。3戦目にトップを取れれば、昇級はほぼ確実なものになる。次の速報で彼女の運命が決まる事になるかもしれない。


頑張れぴっぴ。頑張れ、頑張れ、頑張れ。


17時31分、最高位戦の速報よりも一足早く、ぴっぴのポストの通知が来る。

2戦目までの負債を取り返す大トップだ。空前絶後の大事故が起こらない限り、ここから陥落する事は無い。全身から力が抜ける。最終戦はウイニングランだ。

21時10分、最高位戦から全対局の終了が
アナウンスされる。


そして21時19分、ぴっぴからのポストが届く。

とても不思議だ。自分の事なら平気なのに、何故彼女の事になると私はこんなにも涙脆くなってしまうのだろう。いつもいつも心配で、これまでまるで穏やかな心で応援が出来なかった。でもこれでようやく少し安心出来る。


遅らせていた入浴を済ませ、購入しておいたビールを冷蔵庫から取り出す。

おめでとう、ぴっぴ。

そう呟いて、タブを開き、ビールを流し込む。なんだかいつもよりも美味しい気がする。それは普段飲まない高いビールだからじゃないか?いいや、違うよ。ぴっぴが勝ったからさ。

彼女のファンになってからこの日までの事を思い返しながら、ゆっくり、ゆっくりビールを飲む。朝から張り詰めっぱなしだった心と体は休息を求めている。床につき、目を閉じる。

こうして私のもっとも長く、ナーヴァスな1日は終わりを迎えた。

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