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ラフマニノフ6 「愛するRe」


ラフマニノフには、5年間書簡をやり取りした「Re」という女性がいました。交流が始まったのは1912年、ソナタ2番Op.36が作曲された1913年と時期が重なります。今回は、ラフマニノフが「Re」に送った書簡の1通を紹介します。前回一部だけ紹介した英訳版(Bertensson, 1956. pp.179-180)の全訳です。思い切って平易な日本語にしました。やや長いですが、どうぞ最後までお付き合いください。(「ゴキブリ」の訳だけ、Bertenssonが使った「beetle」ではなく、Scott(2007)が使った英語訳「cockroach」を参考にしました)↓

ラフマニノフの手紙 (1912年5月8日. イワノフカ「Re」宛):

私の子供、音楽、花以外で、私が愛するのは君だよ、愛しいRe。そして、君の手紙だ。君は聡明で、実に面白く、極端なところが無いね(私が誰かに「魅力を感じる」には、この最後の条件が非常に重要なんだよ)、だから君が好きだ。そして、君の手紙の一言一言からは、信頼、希望、愛が伝わってくる。私に癒しを与えてくれる、そんな君の手紙が大好きだ。

私は君が思っている以上に臆病者で不安定な人間かもしれないが、それにしても私のことを驚くほどうまく描写するね。私のことがよく分かっている。どうして分かる?いや実に驚いた。でも、一つだけ当たっていないと思う所もあった。君は私に無いものを求めているところがある。私の中に自分が見たいものを見ているね。

私の「犯罪的なまでに真摯な謙虚さ」(Reの手紙にそう書いてあった)は、残念ながら当たっている。そして、私が「世俗的価値を追求して破滅する」というのも、君の言う通りで、あまり遠くない未来にそうなるだろう。きっとそうなる!間違いない、なぜって、私自身が自分を信じ切れていないからだよ。

どうしたら自分を信じられるのか教えてくれないか、愛しいRe!。君が私に寄せる信頼の半分でいいから… 自分のことを信じられた時期があったとすれば、それはずっとずっと昔のことだ、まだ若かりし頃のこと!

この20年間、催眠療法のダーリ先生と2人のいとこ(そのうち一人とは10年前に結婚していて愛しているから、先ほどの愛するリストに加えたい)以外には精神面でお世話になったことが無いんだよ。彼らが、というか私にとっては3人ともかかりつけ医のようなものだが、私にかける言葉はみな同じ、「思い切ってやっていいんだ、自分を信じなさい」って。

これが上手くできることもある。でも病気がしつこくて、この数年間はさらに深く進行しているようだ。怖いんだ。もう少ししたら作曲活動は全て終わりにして、ピアニストに徹するか、あるいは指揮者か、農家か、車の運転手になる決心をすることになっても、不思議じゃない。

昨日ふと思ったのだが、君は私の中に、すぐ傍にいる目の前の彼を見たいと思っているんじゃないか。そう、メトネル君だよ。彼に偏見など持っていないよ。むしろその反対だ!私は彼が大好きだし、大いに尊敬もしている。(君にはいつもそうであるけれど)正直言って、現代作曲家の中で最も才能があると思っている。

メトネル君は、音楽家としても人としても、知れば知るほどその存在が増していく非常に稀なタイプだと思う。そういう天性のものを持っている人は少ないよ!そして、その恵みを受けて、彼はきっと多くのものを得るだろうね。でもそれはメトネル君だ。若くて、健康で、自信に満ち溢れていて、強くて、アポロンの竪琴がよく似合う男。

一方こちらの男は、魂が病んでいるんだ、愛しいRe。竪琴も似合わない、老いぼれだ。私に良い点があるとしたら… それを未来に探しても一つも見つからないよ。

話題を変えて終わりにしよう。君の望み通り、この手紙は「眠たくなるような春の夕べ」に書いている。この「眠たくなるような春の夕べ」のせいだろうか、他人には到底見せられない内容の手紙になってしまった。ここに書いてあることはすぐに忘れてくれるようにね。

窓は閉まっているが、今日は寒いよ、愛しいRe!君の言う通り、テーブルの上にランプを置き、明かりを灯した。寒さのおかげで、君が大好きで私が耐えられないほど怖いゴキブリが、まだ生まれてこないから助かる。

窓には木製のシャッターがついていて、それをさらに鉄製のかんぬきで施錠してある。この状態が私は落ち着くんだ。夕方や夜は、このイワノフカの家の中でさえも、私は「犯罪的なまでに怖がりで臆病」だから、何もかもが怖い。

ハツカネズミも、ドブネズミも、ゴキブリも、牛も、泥棒も怖い、風が吹いて煙突がゴーゴー唸ると怖いし、雨が窓に激しく打ちつけても怖いし、暗闇も怖いし… 古い屋根裏部屋も嫌いだ。幽霊の存在もこの際信じようかと思っている。(こういう話、君は好きだろうな!)さもないと、もう自分が何を怖がっているのか分からなくなってきたからね。昼間だって、家に一人でいると怖いんだから。

「イワノフカ」は古くて、妻が所有する領地と屋敷なのだが、私は自分の家だと思っている。そうマイホーム、もうここに23年も住んでいるからね。ここに来れば… もう遠い昔の話だ、私はまだまだ若かった、あの頃はここに来ればよく仕事が出来た… けれど今はそれも「懐かしいメロディー」だよ。

この年の12月、筆が進まないラフマニノフは家族と旅に出てローマに行き、かつてチャイコフスキーが仕事場にしていた部屋を借りて、ソナタ2番Op.36に着手しました。その様子は、ラフマニノフ祭1に訳出しています。

4月はラフマニノフの誕生月で、また亀井くんのプログラムにラフマニノフソナタ2番が組まれたこともあって、ラフマニノフ祭をしました。世の中まだまだ不透明ですが、こんな時こそ、私のナンバーワンピアニスト亀井くんを心から応援したいです。皆様には最後まで拙訳にお付き合い頂き、本当にありがとうございます、心より感謝申し上げます。

次回は、またショパンに戻り、先日、亀井くんが昼と夜で表現を変えたアンコール曲「英雄ポロネーズ」について、ちょこっと調べてみたいと思っています。🙇‍♀️🔚

「ラフマニノフのように弾いて書いて揮う」と今後の抱負を語る亀井聖矢さんが、日本音楽コンクールの思いでの地、東京オペラシティに、7月25日(日)ソロリサイタルで凱旋します。ラフマニノフソナタ2番もプログラムに入っています。ご自身による公演告知ツイートと、奇跡的に実現したラフマニノフソナタ2番ロマンティックで切ない2楽章@アルゲリッチハウスの演奏を載せておきます。告知ツイートにはチケット情報のリンクがあります。ぜひご覧ください↓