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ラフマニノフ5「ドライブが好きで、R eという女性を愛し、ゴキブリを怖がった」

ラフマニノフ祭3では彼の人間性が垣間見えるような箇所を探し、現代日本語訳を作りました。(ヘッダーはパステルナークが描いた『ラフマニノフ』1916年)
(References: Scott, 2007; Bertensson, 1956; Riesemann, 1934; Matthew-Walker, 1981)

ラフマニノフはソナタ2番Op.36を、イワノフカ滞在中に完成させています。1913年の夏です。イワノフカには妻の実家が所有する広大な敷地と屋敷があり、ラフマニノフは自然に囲まれたこの地で多くの作品を書きました。イワノフカではまた、当時では珍しく、彼は車の運転を楽しんでいたようです。

1909年にオープンカーを入手し、友人の音楽家モロゾフ宛に:「車が好きだ、言葉では表せないくらい好きだ」と書いています。ゴーグルをして自らハンドルを握り、オープンカーの疾走感と風を楽しんだラフマニノフ。 1913年6月29日付けの手紙を読むと、指揮に共通する感覚を車の運転から感じとっていたことがわかります:

「思いっきり空気を吸い、自由と青空を満喫する。こんな風に新鮮な空気を浴びると、勇気が湧いて強くなった気がする。車を運転する時に覚えるこの感覚は、指揮をする時に経験するものとそっくりだ。

指揮の時は、自分と音楽のエネルギーを意のままにできる完全なコントロール感、ドライブの時は、自分とメカのエネルギーを自由に操れる支配感、心が穏やかになって、そういう感覚を味わうことができる。」

ラフマニノフはイワノフカに農園を作ることも夢見ていたそうです。オープンカーに続き、1914年に米国製のトラクターを輸入しようと、農業省にかけあった、と回想しています:

「役人は、なんとか諦めさせようとあれこれ言ってきた。こんなに馬も所有しているのに、なんでまたトラクター必要なんですか?それに、これ、誰が運転するんですか?と訊くので『もちろん、この私が自分で運転します』と答えた。間違いなく、あの役人、私のことを頭がおかしいと思ったはず。でもおかげで、ようやく許可が下りた。秋にはトラクターが届く予定だったが、8月に戦争が始まり、結局トラクターとは会えずに終わったな…」

そんなラフマニノフ、想像に難くないですが、かなりの臆病者だったようです。1912年5月8日付けの手紙で、自分が恐れているものを羅列しています:

「何もかもが怖い。ハツカネズミも、ドブネズミも、ゴキブリも、牛も、泥棒も、風が吹いて煙突がゴーゴー唸ると怖いし、雨が窓に打ちつけても怖いし、暗闇も怖いし...古い屋根裏部屋も嫌いだ。幽霊の存在もこの際信じようかと思っている。⭐︎ 昼間だって、家に一人でいると怖いんだから。」

また、同じ手紙の中で、愛するものについても触れています:

「子供、音楽、花以外で、私が愛するのは君だよ、愛しいRe。そして君の手紙だ。君は聡明で、実に面白く、極端なところが無い、だから好きだ(この最後の条件は、私が誰かを好きになる上で非常に大事なんだ)。」

この「Re」という女性。名前をマリエッタ・シャギニャン(当時24歳)といいます。詩人でした。モスクワ大教授の父を持ち、文化的な環境で育った彼女は、ラフマニノフに癒しと知的刺激を与えたそうです。

シャギニャンが自らをReと名乗り「モスクワ市内でも遭難しそうなくらいの猛吹雪の日に、ラフマニノフに初めて手紙を書いた」のが1912年2月。この一風変わったReという名前に目がとまり、興味を持ったラフマニノフは彼女に返信します。これがその後5年間続いた2人の交流のはじまりでした。

「実際に会った後も、ラフマニノフは最後まで私のことをReとしか呼ばなかった」そうです。彼女が書いた手紙は残っていないのですが、ラフマニノフが書き送ったものは、彼の死後にシャギニャンが出版しました。

愛するものや怖いものが書かれた1912年5月8付けのこの手紙、他にも、作曲活動をやめるとか、メトネルのことなどが書かれ、自虐ユーモアも見せています。次回拙訳にてご紹介したいと思います。今回も最後までお付き合い頂き、本当にありがとうございました。🔚

私が大好きなピアニスト亀井聖矢さんが、日本音楽コンクールの思いでの地、東京オペラシティに、ソロリサイタルで凱旋します。7月25日です。ラフマニノフソナタ2番も演奏します。先日sala arietta公演でのラフマニノフソナタ2番の最後の部分、亀井さんが自身でツイッターに動画をあげています。公演告知のツイート(チケット情報リンクがあります)とともに、ぜひご覧ください↓