日記⑤
2024.5.21(火)
昨日は悲しい知らせがあった。
たぶん私なんかよりももっともっと何百倍も何千倍も悔しくて悲しい人たちがいることだから、わざわざこと細かに何かを言う必要も無いし、そんなことを言う権利も無い。
ただ不思議である。
世界はなんでこうなのか。
この世に大切な何かをちゃんと残せる人ばかりがいなくなってしまう。
大切な何かを残したまんま、放り投げていってしまう。
なぜなのだろう。いつまでたってもわからない。
悲しい気持ちなのに、そのことをお昼頃に知ったその後も、私はいたっていつも通り普通に笑って働いていた。
家に帰ってからもいつも通りご飯が食べられたし、比較的いつも通り普通に眠れた。
当たり前のことなのかもしれない。
だって私はただの社会人だし、ましてやあの人は私が一方的に知っていただけで赤の他人だし。
さっき知った悲しい事実は、私の中ではちょっとしたモヤモヤとか、そんくらいの温度感で頭の中で処理されてしまっているのかもしれない。
なんたる切なさだろう。
気持ちと体は比例しているようで比例していない。
悲しみと生きるための欲望は時に反比例してしまう。
私はこんなにも冷たい生き物だったのか、
と自分に対しての不信感が募っていく。
こういうことがあるたびに、
THE YELLOW MONKEYの「JAM」という曲を思い出す。
言葉にしようのない表面上の悲しみと哀れみの気持ち。その奥にあるたかが人間という生き物の動物的な冷たさ。
この曲を噛み締めるというよりは、聴くたびに自分自身を深く抉られるような気持ちになる。
どんなことがあっても自分から遠ければただ普通に動いていく毎日と、普通に動いていける自分がひたすらに不思議で怖くてたまらない。
毎日に「悲しいので待った」は効かない。
ひどいものだよな。
今、特段落ち着ける場所もない。
私はまた明日は明日で普通に生きてしまうんだと思う。
かっこいい人はなんでかっこいいまま去っていってしまうのだろう。
もういよいよダサくなるまで見せて欲しかった。
私ぐらいの奴が泣いたって、ただのほんの少しの乾いた目を潤すためのわずかな水だ。
あの人を本当に想う大切な大切な人たちの涙こそ、ずっとずっと綺麗な心の海になるんだろう。
そうでなくちゃいけないのだ。
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