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古い映画に魅せられて

「『旅情』っていう映画知ってる? あの映画を観てからずっと、いつかヴェネチアに行ってみたいと思ってた」

「知ってるよ」。母に向かって私は答えた。キャサリン・ヘプバーン主演のロマンス映画の名作。ヴェネチアの運河に落っこちたりするキャサリンのコミカルな演技が楽しくて、恋愛映画はあまり見ない私も、この映画はお気に入りだ。

しかし母は娘の返答なんてもうそっちのけだ。映画で見た水の都が、いま現実の風景として眼の前に広がっているのだから。

世界がコロナ禍に巻き込まれる前年の夏。私は夫と一緒に、私の母を連れて初めてのイタリア旅行をした。そして最初に訪れたのが、母の憧れの地ヴェネチアだった。

私たちはサン・マルコ広場に駆けつけ、カフェ・フローリアンでお茶を飲むことにした。映画の中でキャサリン・ヘプバーン演じるジェーンが素敵なイタリア男性レナートに出会い、その後もたびたび逢瀬を重ねた場所だ。

平日だったせいか、その日のカフェ・フローリアンはそれほど混雑していなかった。世界最古といわれるこのカフェにはステージがあり、いつも音楽が生演奏されている。私たちはステージに近い席に陣取った。

1955年の映画『旅情』を母が観たのはいつのことだろう? 私はレンタルビデオで観たのだが、母と一緒に観た記憶はない。その私の記憶でさえもう30年近く前なのだから、母の記憶はそうとう遠いものだろう。もしかしたら私の知らない、母の独身時代のことだったのかも――。

お茶を楽しみながらそんなことを考えているうちにも、ステージの上では楽団の演奏が続いていた。一曲演奏し終わって拍手が起こると、音楽家たちは笑顔でカフェの観客を見渡した。そのときステージの上のヴァイオリニストが、「日本人がいるな」という感じで、ちらりとこちらに目を向けた気がした。

次の瞬間、なんだか聞き覚えのあるヴァイオリンのメロディが流れてきた。それは、日本人ならおそらく誰もが知っているであろう昭和の歌謡曲だった。ほかに日本人客の姿はなかったので、私たちのために演奏してくれていることは明らかだった。

それは日本人客がいるときに必ずやる、お決まりのサービスだったのかもしれない。それでも私たちにとっては思いがけない、一期一会の出来事だった。

『旅情』のジェーンが恋に落ちたレナートは、実はひとり旅の女性に決まって声をかけるような既婚のプレイボーイだったが、それでもヴェネチアで彼と過ごしたつかの間の日々は、ジェーンにとって一生忘れられない素敵な思い出になったことを思い出した。

カフェ・フローリアンで出会った、映画とはまたひと味違うヴェネチアの思い出を胸に、私たちは次なる聖地、『ローマの休日』で有名な真実の口へと向かったのだった。

#わたしの旅行記

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