じいちゃんが亡くなった話

COVID-19 に関連した緊急事態宣言の解除から3日。今日は2か月ぶりに定時で仕事を終えて帰路に付いた。品川駅で乗り換えて、空いていた座席に腰を下ろした。新橋、東京と電車が進むにつれ、人がどんどん乗り込んできた。ふと聞こえた咳払いの音で、俺は先日亡くなった志村けんさんを思い出した。やっぱりしんどかったのかな、とか、あの番組って今はどうなったんだろうとか、普段見もしないくせに色々と想いを馳せたあと、次に俺はじいちゃんの事を思い出した。じいちゃんは3月の終わりにガンで亡くなった。

その日は、新しく出来た彼女に手料理を振舞いたくて鶏もも肉を2パックも買い込んで意気揚々と調理していた。2度揚げも終盤、最後の3分を待っているときに妹からじいちゃんが亡くなったと連絡がきた。その日は彼女と手作りのから揚げを食べて、うちに泊まってもらってのんびりお酒でも飲もうと計画してたけど、かなわなかった。彼女が何か言いながらハグしてくれたけど、とりあえずその日は帰ってもらった。バカみたいに揚げたからあげも3つほどつまんだだけであとは冷蔵庫に入れた。翌朝、新幹線に乗って俺は大分に向かった。

半日ほどかかった。福岡の小倉駅からはローカル線で大分駅へ向かった。色んなことを思い出した。俺は奈良県出身で、身近に海がない環境で育ってきた。海といえば母親の実家がある大分県に毎年夏になると1ヵ月ほど長期で帰ったが、その印象が強かった。じいちゃんがバケツ一杯になるまで取った海の生き物を見るのが好きで、中でもヒトデを見たときはすごい興奮したのを覚えてる。大分川というでかい川がうちの近くに流れてて、そこに遊びに行ったのも覚えてる。近かったので毎日連れてってもらったが、何してたっけな。釣りでもしてたかな。カブトガニを初めて見たのも大分やったし、初めて潮干狩りをしたのも大分やった。3つ下と5つ下に従姉弟がいて、あいつらとも沢山あそんだ。関西育ちの俺にはコテコテの大分弁は新鮮で、子供の頃から話す言葉は住んでる所によって違うんやなってはっきり意識できた。とにかく、めちゃめちゃに思い出の詰まった土地が大分やった。

駅に着くと、従妹が車で迎えに来てくれた。もう24か、そりゃバリバリに運転するわなという感想はいちいち言わなかったが、みんな大きくなったと感じた。その日は夜からお通夜だったのでバタバタしていた。16時に大分駅で俺を拾った従妹はその足で仕出し弁当を受け取りに行き、そして斎場に向かった。家族葬だったので規模は小さく、またうちの他には誰もおらず、なんだか親戚の集まりのようだった。とりあえずみんなに挨拶をして回った。千葉に住んでいる俺は、両親にすら会うのは久しぶりだったので声をかけた。母親は目が赤かった。親父が側にいたので大丈夫かなと思った。ばあちゃんにも声をかけた。じいちゃんの顔見てあげてと言われた。白い布をずらして上から覗いた。もとから痩せ型やったけど、もっと小さくなったなあとか思った。ばあちゃんは笑ってたから、俺も笑った。みんなに会えて喜んでるかなって言ってたから、せやなって言っておれは煙草を吸いに出た。従弟に出くわした。お前も煙草吸うようになったのかとひとしきり盛り上がり、そのあとお通夜は始まった。30分もすればお通夜は終わり、親戚も帰っていった。

用意していた仕出し弁当を、ばあちゃんと、うちの家族、そして母親の妹の家族とで食べた。懐かしい話でもちきりになった。ばあちゃんは家からアルバムを持ってきていたのでそれを見ながら、あの時はこうだった、誰がおもらししただの話でみんな笑顔やった。隣の部屋でじいちゃんが寝ていたので、扉あけといて、みんなの声聞こえるようにしようって誰かが言ったからそうした。あんまり亡くなったって感じはしなかったな。

そうしているうちに、じいちゃんの話になった。ここ数ヵ月でぐっと体調が悪くなり、食事もあまりできないようになっていた。たしか初めてガンが見つかったのが1年前だったか、いつだったか。退院して普通に生活してるよって言ってたから、全然心配なんかしてなかった。3月の頭に両親は一度大分に帰っていたらしい。もしかしたら、その頃にはもうじいちゃんもあぶないかなって話があったのかもしれない。俺は知らなかった。それから1ヵ月も経たずにじいちゃんは亡くなった。ばあちゃんも歳だけど、近くの病院へじいちゃんを車いすに乗せて連れていき、点滴をしてもらっていたらしい。亡くなるその週は特に体調が悪かった。水曜日に一度入院するということでじいちゃんを病院に残したが、このコロナ騒ぎのなか、面会すら出来ないという事を知らされたばあちゃんは、無理言って金曜日にじいちゃんを連れて家に帰った。もうじいちゃんは自分で歩けなくなっていて、ばあちゃんが引きずるようにあれこれの世話をした。夜中に物音がしてじいちゃんのもとへ向かうと、手をしきりに動かしていたらしい、トイレかなと思って引きずって連れて行こうとしたが、その時にはもう冷たくなっていた。最期はばあちゃんの腕の中で2人で居れたから、きっとじいちゃんも寂しくなかっただろう。退院した翌日のことだった。

あの日、ばあちゃんが無理やりにでもじいちゃんを家に連れて帰っていなければ、最期は一人だったかもしれない。ただ本当に命尽きるその時まで2人が側に居れて、本当に良かったと思った。みんな泣いてたし、俺も泣いた。悲しくはなかったけど泣いた。良かったなって気持ちだったと思う。ばあちゃんは悲しそうな顔は一切見せなかった。翌日もお葬式があるので、みんなは帰った。親父と、叔父と俺だけが斎場に残り、お酒を飲みながらまた話した。親父が懺悔するように、母親とのなれそめを語りだした。普段なら面倒くさいと思っただろうけど、その時は思わなかった。親父は大分の大学の卒業式が終わったその日、荷物をまとめて奈良に帰るそうだった。当時付き合っていた(現在の母親だが)彼女の家に、最後に声を掛けに車で向かった。事前の声かけも何もなしにやって。アホか。だからそこでお別れをして一人で奈良に帰ろうと思ってたんやと。母親に別れを言いに来たが、母親も母親で別れの挨拶聞くやそのまま大きめのカバンに服やらなんやらササっと詰めて、親父の車に乗り込んできた。そして2人で奈良に帰って今に至るということらしかった。ほんまか?まあ嘘でもどっちでもいいや。とにかくそんなバカを許してくれたお父さん(俺から見ればじいちゃん)はほんまにすごい、という事が言いたかったらしい。結婚なんか勢いやったよな、俺らの時代は、と叔父さんと親父で盛り上がったあと、お前もええ歳やねんから~とお決まりの説教を聞き流し、また酒を飲んだ。おっさん2人はそのうち寝そべりだし、10分もしないうちに寝た。ただ叔父さんのイビキが本当にうるさくて、まじじいちゃんが怒りに出てくるんじゃないかってくらいうるさくて、俺はたまらずに外に逃げた。

ふと気になってGoogle map を見てみると、子供の頃よく連れてってもらった大分川がまあ徒歩圏内にあるのが確認できた。斎場の自販機で買った水を片手に俺は歩いた。3月の夜はまだまだ寒かったが、歩いてあったまった身体にはその寒さが心地よかった。片道20分くらいやったか、歩いて到着した河原の階段に腰を下ろした。30分くらいぼーっとした。煙草は4本吸った。うまかった。行きしなに買ったペットボトルの水をちょうどいいくらいに残しておいたのでそれを灰皿にした。じいちゃんも煙草吸ってたっけと、そこで思い出した。煙草吸ってたな、じいちゃん。家の庭にある灰皿パンパンやったわ。そんなことを思い出して、俺は斎場へ戻った。

翌日はお葬式やった。涙が止まらんかった。ハンカチを持ってきて本当に良かった。なんで泣いたんやろう。ばあちゃんが、家の庭に咲いてた花を少し摘んできていて、一束くれた。じいちゃんの顔の側に添えた。どうやら斎場の方でもお花の用意があったらしく、棺の中は花でいっぱいになった。顔に触れてあげてとばあちゃんに言われたので、本当は触りたくなかったけど触った。冷たくて、もう死んだのかと思うと涙が止まらなかった。花でいっぱいになった棺を見ても泣いた。火葬場に行き、いよいよそこが最期のお別れやった。火を入れるスイッチは、ばあちゃんと、母親と叔母さんの3人で押してた。どういう気持ちやったんやろう。これでもう本当に最期やと思うとまた泣いた。今までじいちゃんと遊んだこととかを思い出してまた泣いた。一番辛かった。骨になったじいちゃんに再会した。あの焼けたにおいは嫌いや。なかば作業感を漂わせる係の人に言われるがまま、骨を骨壺に収めた。大きすぎるものは砕いてくださいなんて言われて、言われるがまま砕いて入れた。その頃には自分の気持ちは昇華出来ていたと思う。もう悲しくはなかった。あとはじいちゃんを家まで連れてかえって、お葬式は終わりやった。帰りは車を運転できるほどケロっとしていた。

20分ほど運転し、火葬場からばあちゃん家に帰ってきた。第二の家って感じがした。懐かしくて色々見て回った。ある一角には、俺が海外にいたころの写真や、従弟がサッカーで活躍して地元の新聞に載った切り抜きなんかが置いてあった。離れていてもちゃんと見てくれてたんやなと思って、嬉しかった。喪服から着替えようと、ふと入った部屋はじいちゃんの書斎やった。あるのは知ってたけど、改めて大人になって来てみると、案外こじんまりしていた。机の上に敷かれた透明ビニールの下には、なにやら年表みたいなものが見えた。俺の名前の横に誕生と書かれており、生年月日が記されていた。それは兄弟や従姉弟の分まですべて載っていて、あとはこの日に魚を何匹釣っただの、そういった事がたくさん書かれていた。気が付いたらまた泣いてた。やっぱり全然悲しかった。最後に話したのは5年前くらいかな。もっと頻繁に会いに行けなくてごめんなって思った。机の上に置かれた灰皿には、1本だけ新しい煙草が乗っかってた。吸おうと思ってやめたんかな。俺はゆっくりめに喪服から着替えて、庭に煙草を吸いに出た。

長居するのはやっぱり辛かったので、その日のうちに俺は千葉に戻ることにした。帰りもまた従妹が車で駅まで送ってくれた。なにやら駅におススメのパン屋があるらしく、そこのクロワッサンが美味いとの事で。そんなんええよ、正直飯食えるコンディションでも無いしとか言おうと思ったらもうパン屋に向かってやがった。その間に俺は小倉までの切符を買って、窓口から外に出た。そしたら従妹もパンの入った袋を持ってやってきた。早いねん。千葉に帰ったら食べるから、と言って簡単な挨拶を済ませて俺は電車に乗った。3月のその頃と言えば関東はガラガラで、ゴーストタウンかと思うほど人が居なかったと記憶しているが、俺が乗った電車は満員だった。意識の差かなあなんてことを考えながら、指定席のチケット買って良かったなと思った。自由席なら立ちっぱなしやったろうな。小倉駅に着いてからはもう新幹線で品川まで帰るだけやった。小倉までの道中で爆睡したので新幹線は意外と目が冴えており、そういや今日何も食べてないなって思った。お腹がすいてきたので、帰宅してから、と思っていたクロワッサンを食べた。うまい。2つ入っていたが、2つとも食べた。車内販売で売ってる、見たこともないようなオレンジジュースも買ってみた。うまいけど量が少なかった。

せわしない2日間だったが、俺は千葉に戻ってきた。何日か休暇があったので、次の日もずっと寝てた気がする。冷蔵庫には入れっぱなしにしていたから揚げが冷たくなっていた。電子レンジで温めてまた食べてみたけど、あんまりおいしくはなかった。飯を食べたあとはとりあえず彼女に連絡してみた。心のよりどころが欲しかったんやと思う。1ヵ月もしないうちに振られるとは知らず、さんざん泣き言を言ったし、あいつも、つらかったね、とかいう返事を寄越してきた。うるせえよ。振るなよ。

そんなこんなから2ヵ月が経った。仕事終わりの電車は人人人でいやになる。涼しかったのもいつの間に、自粛してる間に終わったのか、気が付いたらもう蒸し暑い季節やった。この2ヵ月はなんかよくわからんままに過ぎてた。新しい友達も増えた。毎日割と楽しく過ごせていると思う。なぜかそういう事をふと思った。今日も煙草がうまい。

じーちゃん


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?