瞬発力がない話

先日買い物に行った時に、コンビニで売られている、自分でカップにコーヒーを注ぐタイプのものを買った。そのコーヒーが出来上がるまでの数十秒の間に、レジで外国人が店員さんと何やら揉めていた。このレシートにはスタンプが必要だと言う外人さん、それはもう不要になったんだと説明する店員。しかし言葉が通じず苦戦されていた。自分なら助太刀出来るのではないかと思ったのだが、そこで声を掛ける咄嗟の判断よりも、この人英語話せなかったらどうしよう、邪険にされて手助けなんかいらねえと言われたらどうしようというしょうもない葛藤の末、何もせずに店を出た。

自分のマンションに帰り部屋までの階段を登っている最中、一人の方とすれ違った。踊り場に近い場所で出くわしたので、その瞬間まで人に会うなんて想像もしてなかった自分は、その人の「こんにちは~」という何気ない挨拶に上手く返事することが出来ず、「すみません」と最初に口にしてしまった。そのあとでこれは変だと思い、ちゃんと「こんにちは」と返したのだが。

別の日の話になるが、よく遊ぶ友人たちに誘われてあるゲームをプレゼントしてもらった。十人くらいで、いわゆる殺人鬼とその他に分かれて宇宙船の中で殺人鬼探しをするようなゲームだった。プレイヤーの投票によりメンバーが除外され、最終的に鬼が逃亡者の人数とタイになれば鬼の勝ち、鬼をすべて追放出来れば逃亡者側の勝ちというもの。Aから始まるあれ。ゲームの最中には頻繁に会議が開かれ、ここで〇〇さんの死体を発見しました、〇〇さんはその時どこに居ましたか?アリバイはありますか?などのやり取りが繰り広げられる。もちろん犯人側は嘘をついて自分への疑いを散らし、投票を上手くかいくぐっていく。それをプレイしていて痛感した。自分には瞬発力が絶望的に欠如している。上手く嘘もつけない。その場で巧みに逃亡者を殺人鬼に見せかけて上手く自分への注意を逸らす友人をみて、これは才能だと思った。と同時に自分には何年たってもその話術は習得出来ないと思った。いや、あるいはそういう能力を磨くことを諦めたと取ることも出来た。その出来事が結構なショックで、頭の回転が遅い自分をとても情けなく思った。

その一方で、自分にはとても楽しみな事もあった。身内では「推し会」と呼んでいるのだが、自分が日ごろから聴いていて、とても感銘を受けた音楽を友人にひたすら推す会である。そのまんまである。これは自分はとても楽しめている自信があったし、こういうプレゼンはとても得意だと思った。その場の思い付きではなく、日ごろから自分の好きなモノ(ここではあらゆるエンタメも含まれるが、)に感じている自分にたまらなく刺さったポイントを、誰かと共有したい、友達にも共感してほしい。そう思った時にどういう伝え方をすればより共感してもらえるのか、もしくは伝え方を二の次にしても自分の熱意で押し切ってわからせるのか。そういった事をじっくり考えて伝えることの方が得意だと思った。これはもちろん、頭の回転が速い人ならこういう事も難なくやってのけるのだろうが、自分のような瞬発力のない人間にはうってつけの思考だった。というかそういう考え方でこれまでの人生を生きてきたのである。

そうしたときに、これも最近になって気が付いたが、趣味として一人で時間をかけて楽しめるもの、そういうものに熱中しやすいということを思った。先ほど話したが音楽で言えば、気に入ったものは自分の時間を費やして何時間でも聴ける。何年たっても聴ける。そういう積み重ねの中で気が付いた事を言葉にしてみると、それが友人には真新しく映ったり、新しい発見を与えることが出来たり。それは逆もまたしかりで、そういう楽しみ方があったのかとハッとさせられることも多かった。そういう事にやっと気が付いたのが27歳も終わりに差し掛かった2月のことだった。

頭の回転が速い人間は賢い。と頭の回転が遅い自分視点から見ていて思う。だからそういう人に憧れてみて真似したりしてみたりと若いころは奔走していたのだが、それはまた別の機会に話すとして、ともかく俺は聡い人間になることが出来ないと思った。それがずっとコンプレックスだった。けれども最近は開き直るではないけど、別のアプローチで勝負すればいいかと思うことが出来た。数学がダメなら英語を頑張ればいいやん、というような感覚。ちょっと違うかもしれないが。

だから人と会話するよりも、こうして時間をかけて頭の中を整理して、自分の中に積み重なったものを言葉にする作業はとても好きなのだ。そういうどんくさくてのろまな自分のことも受け入れていかないといけないと思うようになった。出来ないことを嘆くよりも、出来ることを伸ばしていくほうが自分が楽しいなと思う今日この頃である。

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