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フィリップ・K・ディック 歴戦の勇士 変種第二号


老人はベンチに座ってなかば目をつむり、しなびた唇をゆがめて失意と敗北の冷笑を浮かべた。だれもこの片目のよぼよぼ老人に興味を持ってくれない。だれもこの老人が戦った戦闘、目撃した戦術についてのこんがらがった長話を聞きたがらない。だれもあの戦争のことをおぼえていないようだ。だが、あの戦争は、老人の衰えた脳の中でいまも邪悪な腐食性の炎のように燃えさかっている。聞き手さえあれば、この老人は、あの戦争の事を話したくてうずうずしてるのに。

フィリップ・K・ディック 歴戦の勇士 変種第二号、より p225

この短編は1955年に書かれたという。
彼を含め50年代にエイリアンもの、SFものが大量に書かれたのは有名な話で映画も数十本公開されたという。いうまでもなく、ソ連を仮想敵としたプロパガンダ政策の一貫である。得体のしれない敵――イワン、そんな不安を煽るために。

そんな中、彼もソ連をエイリアンに仕立てたSFものを多数書いているわけだが、私は元々、このタイトルの「変種第二号」が読みたくて借りた。
映画にもなったのだが原作はそのままアメリカとソ連の戦争として描かれている。まぁこの話は、今回はいい。

短編集だから他をパラパラと読んでいると、孤独な老人が日差しの射す明るい公園で一人、孤独に苦虫を嚙みつぶしたような顔で人々を眺めている、という文に私はひかれたのだ。

私は時折そう遠くない公園に散歩に出ることがある。
そこは公園というより小さな競技場という位な大きさである。そこで見るのは大量の老人である。むろん子供も遊んではいるが、彼らはジャングルジムに登りスマホをいじってるくらいだ。
どこからこんなに集まってくるのかというほど老人が集まり、そこかしこに小さな塊が出来ている。その大半は女性である。一方男性は、やはりというかそうなるだろうという具合に一人一人がポツンと座ったりしている。

いうまでもなく彼らも戦争をまったく知らない世代である。
しかし、それは私のようなオッサンも含めて、日本において戦争ともいえる時期を過ごしてきたと思う、そしてそんな話は誰も聞かないし知ろうともしない。
今でも戦争状態というのはあって、ウクライナでは何十万のcasualty だとかイスラエルでは云々とか言われる。また先の震災でも1万以上の被害だとも言われる。
しかし一方で、自殺者は2万、行方不明者は8万、なんなら徘徊老人は2万近いというこの状態は、戦争とどこが違うのだろうか、などと思う。宣戦布告しない状態を平和だとか言うらしいが、こんな論法もうんざりである。銃で殺したり手りゅう弾を投げるだけが戦争ではない、と思う。
この公園こそが、そしてそれを眺めている私も含めて、その戦争の残滓なのではないか。

また思い出したのは、ドキュメンタリーでも出ていた、沖縄戦に参加していた老人だ。関東軍にはいり後に沖縄戦での壮絶な体験談は、今でもネットで見れるだろう。確か彼は本を自費出版してたはずだが、いつか読むべきだとおもいつつ今に至っている。
そげ落ちた頬の肉、衰えた視力、ごま塩のあごひげ、悪臭のする弱弱しい息、、、、
歴戦の勇士――寂しいものである。

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