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反知性主義者の大阪人の散歩 その1「生きては出られぬ飛田新地」

私は大阪人ではあるが関東にいたせいで大阪を実の所知らない。またよくある風俗レポとかそういう類のものをあまり好まない。だからこれは単なる感傷的な雑記である。

飛田新地は知る人は知る、知らない人はまったく知らない風俗街である。昨年12月、つまり2021年12月、かんなみ新地が一掃されたというニュースも知らなかった。一体どういう共通項からかは知らないが「新地」という言い方をするようだ。
ともかく書いていこう。

まず地下鉄堺筋線という南北に貫く地下鉄で動物園前で下車。そしていきなり迷うのが私である。私はスマホの現在位置表示も嫌いである。

よく分からない商店街を通る。ふと思い出したがパサージュ論という本がある。パリにできたアーケードのおかげで都市生活者は夜も雨の日も出歩くことが出来た。そして風俗も生まれ犯罪も生まれた、たしかそんな話である。

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居酒屋で売られていたかは定かではない。子供の頃
「覚せい剤打つよりホームラン打とう」なるふざけたポスターを思い出す。
適当な道を辿ってもそれらしき所に出ずウロウロすると三角公園に出た。ここは写真はない。昼間とは言え撮るものではない。公園には隅に少し高くなった所があって小学生の演劇程度ならできそうなものである。
実はこのあたりに興味を持ったのも、こうした労働問題「的」なことからである。最初に書いたが私はルポをしたいわけでもないし上から目線で風俗をネタとして扱いたい訳ではない。ただ興味を引いたのは「寄場詩人」なる冊子のことだ。

寄場詩人ダウンロード

ネットでは一部しか見られないが国会図書館にはあるらしい。いわゆる社会主義革命の余波は日本では学生運動でしかなく、新左翼らはどこへともなく去った。しかし実際の所、ああいう学生の乱痴気騒ぎではなく労働問題を語る人が日本にいたのかは気になっていた。もちろんベトナム戦争だって新安保締結だって問題ではあっただろう。しかし労働者にとってなにより中間搾取――いわゆるピンハネだけが問題の筈ではあるが、誰も語らないのが不思議であったし、今も誰も言わない。
90年代のあいりんの暴動(いや、80年代だったか)の経緯をうろ覚えしか知らないが、結局反社の癒着とかそういう話で、結局働く人にとって別段どうでもいいのではないかと思ったものである。
ともかく、、、そうしたことを思いながら歩く。
1月初旬であるし寒い。風はない。ここで誰かがアジ演説の一つでもしたのかもしれない。

迷って結局堺筋に戻る、するとでかでかと書いてるではないか。
動物園前から南側に下り、そのまま少し南に向かえばいいだけの事だったらしい。

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そう、ここはあくまで「料理組合」なのである。終戦を敗戦と言わない日本人のメンタリティ、ではなくなんというか、生活の知恵とでも言うべきか。

門らしきものがあるが、おばちゃんに話を聞く。
「ここって門があるんですか?」
「そこが、ほれ、そや」
「嘆きの壁って知ってますか?」

某サイトの案内に嘆きの壁と書かれていたのだ。これがここに来た動機と言っていい。
ユダヤ教徒と大阪の春を売る女性たち。むろん、どういう繋がりもない。
イスラエルの嘆きの壁はさらっとwikiを見るとヘロデ大王が紀元前20年に建築したものの壁の一部であるそうだ。この頃と言えば、マタイによる
「ここは強盗の巣か」
とある男が屋台を蹴り飛ばした場所である。
「彼らは長い衣を着、宴会の上座を好み、やもめの家を食いつぶすのだ」
そう罵倒した場所である。

「そんなん知らんねえ」
そういう婦人はここに70年住んでいると話してくれた。どういう訳か大阪のおっちゃんおばちゃんはそういう辛気臭い話しに付き合ってくれる。
「昔は生きては出られぬ飛田新地言うてたけど、今は違う。モデルみたいな子がお小遣い稼ぎに来てるんやと」
「遊ぶ金ですか?今の景気もあるんじゃないです?」
「そんな昔みたいなことはあれへんわ」
そういって笑うのである。

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門があったらしい場所を撮る。片方があるだけだし、また古い物でもない。

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碑が添えられている。ここも空爆を受けていたようだ。
適当に歩く。そしてそこかしこから呼び声の女性の声が聞こえる。4時くらいだったが商売はするらしい。ハッと中を見る。――いやこんなことを書くべきか迷ったのだが、、、彼女らは一つの店に1人、ちょうど玄関の上がり口に座っている。電気ストーブがありひざ掛けをかけている。綺麗な人だったと思う。ただ、なぜか見るのを躊躇われた。ひどく心が荒んでいく気がした。
いや、また、余談をしたい。
もう何度目か分からない「罪と罰」を読んでいる。冒頭はソーニャが売春した金で父親のマルメラードフが酒を飲んでいる、そんな話だ。
「減るもんじゃなし、宝物でもあるまいし」
そういう言葉が心を抉る。いや、そういう話ではない、そういったおばちゃんの言葉を信じることにする。それはある意味羞恥であり怖いもの見たさの中学生の感傷であり、目の前から目を背ける偽善者の目線だろう。

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目の前に古びて誰もいなくなったたたずまいを見つけた。老女に「これを撮っても良いですか?」と念押しして撮った。ここは、撮影は厳禁な場所なのだ。また横に座った女性と目が少し目が合ったが私は首の骨が折れるような勢いで顔を逸らした。そう、私こそが偽善者なのだ。。。

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通りから天王寺のガラス張りの楼閣を眺める。下には薄汚れたトタンの廃屋がある。人工衛星から観測すれば、ここは薄汚れあそこは煌びやかなのだろうか。
「橋本さんがなってから、ここもキレイになったんよ、前はゴロゴロ寝てるのが一杯いたし」
個人的な見聞ではこのオッサンの評価は完全に二分される。私としては、「それは綺麗になったんじゃなくて、どこかに移動しただけですよ」と心で思うだけにした。江戸っ子にとって石原が評判良いのと同じな感じがする。

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とりあえず南側に行き外壁でもないか歩いてみる。多分、これも違う。なんとなく古い感じがしたから撮っただけである。ここに人は自由な意思で入り自由な意思で出て行くのである。…いや、本当にそうなのだろうか?目に見える壁は確かにない。Arbeit macht frei「労働は人間を自由にする」と書かれた鉄の門があるわけでもない。

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古いものだと思ったら、よく出てくる料亭であった。ネットでは女性も来れる、的な事が書かれていた気がするが、ちょっと場所的に女性と来るべきではないと感じた。ここだけは普通の料理屋なのだが。
私が常々疑問なのが関西の落語に遊女のモノ――置屋噺がないことだ。江戸では盛んであったが今は禁演落語という形でしか残っていないそれらは、なんというかヒトが生きる上で欠かせない物の一つなのだ。誰がネバ河に飛び込もうが妙な男がうろついていようが、それが現実なのだ。しかし誰もエッセンシャルワーカーとは言わないだろうが。
時間は5時前になりかけていた。歩く男がチラホラ出てきていた。いわゆるアジア特有の赤や紫のネオンのゴテゴテした歓楽街と違い、白いガラスの提灯を模したものに明りが灯る様はここがかつての名残をとどめているような気がした。

ヘンリー・ジェームスが

ようやく死の床についた。素晴らしいことだ

そう書いたそうだ。
なぜこんなことを思い出したか、自分でも分からない。

飛田新地sAEjlwS (1)



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