〈手続き〉としての科学

2022年度の春学期に履修した講座「社会科学概論I」の学期末課題として私が執筆したレポートを公開します。課題の内容は、A4判1ページで次の内容についてまとめる、というものです。

社会科学はいかなる意味においてあり得るか否か(ただし授業中の議論を必ず引用して論じること)。

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本レポートでは「社会科学はいかなる意味においてあり得るか否か」という問いについて私の主張を述べる。

私は、社会科学概論Ⅰの講義動画でたびたび議論にのぼった再現可能性や反証可能性は、科学の本質ではないと考える。ある科学者が永遠の命を手に入れ、彼の人生の中であらゆる領域に関する科学を独力で「完成」させられるとしたら、あるいは、逆に、卓越した処理能力を発揮して瞬きをする間に科学を「完成」させられるのであれば、別の誰かが既存の成果を後から検証することを前提とした再現可能性は不要である。また、科学者たちがはじめから完全に「正しい」論理を編み出せるならば、既存の成果を疑い、場合によっては修正していくことを前提とした反証可能性は不要である。しかし、現実的には永遠の命も完全無欠の論理も人間には不可能であり、人間に宿命づけられた身体的限界と不可避の誤謬故に科学は共同作業であらざるを得ない。したがって科学が科学として発展していくために科学者間の協力と世代間の蓄積は不可欠であり、再現可能性と反証可能性が便宜的に要請される。再現可能性と反証可能性は、科学の要件ではなく共同作業の要件であって、その意味で、「科学の要件は再現可能性と反証可能性である」というよりも、「科学に含まれる種々の体系が、非常にしばしば、必要に迫られて再現可能性と反証可能性を伴う」とするのが適切である。

実際には、科学に関して、確信的な「完成」が存在するかは未知数であり、また「正しさ」の尺度は不変のものではなく、時代とともに移り変わってゆくものだから、再現可能性と反証可能性は人間が科学を続ける限り半永久的に要請され続けるが、あくまでも、これらの性質に依拠して科学が成立しているのではないと私は考える。

科学そのものは内在的で特別な意味や価値をもたない。このことは、ユークリッドが打ち立てた証明不可能な「5つの公理」をあらゆる数学者が合意したことによって数学が展開されてきたという事実と、証明不可能な「神の存在」を前提として様々な教義や神学研究が展開される宗教の体系との間に、ある程度妥当な対応関係が成立することからも説明される(反証可能性は科学の本質ではないという立場から、議論の中で反証可能性の不在を根拠にその科学性に対する疑義が提起された数学という領域も、ここでは科学として扱っている)。科学は、宗教をはじめとする種々の知の体系と同様、人間の一般的で典型的な知的活動の類型のひとつに過ぎない。

また科学は、再現可能性や反証可能性といった条件によって担保されるような固定的な体系ではなく、科学的操作によっていくらでもその範疇を変容させ得るプラスチックな体系である。その存在様態は、まだ科学の領域に組み込まれていないもの、有り体に言えば、まだ科学的に「解明」されていない事物を、既存の科学的知見を用いて説明することによって科学の領域に包摂し、科学の体系そのものを拡張していく〈手続き〉である。例えば、宗教の体系によってしばしば「神の怒り」として説明される雷という対象を、電磁気学や気象学の知見を用いて「雲の内部の粒子がぶつかりあって発生し蓄積された静電気が地面に向かって放電される現象」という風に科学的に説明することで、雷という事象を科学的な視座から捉えるという〈手続き〉が科学である。

したがって、科学そのものは内在的で特別な意味や価値をもたず、また科学的〈手続き〉によって科学の範疇は柔軟に変容し得るから、同様の〈手続き〉によって、すなわち、社会という対象を、既存の科学的理論・方法論を運用して科学の視座から捕捉し、その外延に含めることによって、科学は社会の領域にまで拡張することができる。すなわち、社会に関する科学、社会科学は可能である。

社会とは何か——2人から社会か、3人以上か、あるいは、内省的対話や解離性障害を想定することで1人の人間の内部に社会性を見出すことができるか——ということについては議論の余地があるが、科学とは〈手続き〉であるという立場から、これらの想定され得る社会のあり方をすべて科学の領域に含めることができるから、「社会とは何か」という問いに対する回答を刻下保留しても、社会に関する科学は可能であるということができる。

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