公権力による社会統合と抵抗——COVID-19流行下のマスク着用に関する議論から

2022年度の秋学期に履修した講座「社会科学概論II」の学期末課題として私が執筆したレポートを公開します。課題の内容は、A4判2ページで次の内容についてまとめる、というものです。

興味のあるトピックを一つ選び、その多様性(あるいは多様な見え方)について論じなさい。

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2019年以降のCOVID-19の世界的流行の中で,マスクの着用は,その感染・感染拡大を防ぐためのもっとも簡便で安価な対策のひとつとして,日本をはじめとする世界各国で政策的に推奨されてきた。パンデミックという社会全体の危機,そしてその中でうまれたマスク着用習慣の普及という新たな社会状況について,人々はどのように反応し,受け入れ,あるいは拒絶してきたのだろうか。そしてまたこれらの反応は,どのような社会的構造に起因するのだろうか。本レポートは,科学的根拠に基づいてマスク着用を支持する立場とそれに対する反論としてのノーマスクという2つの見方を取り上げた上で,マスクという製品のもつ社会的意義,またマスク着用の是非をめぐる議論から抽象される社会構造について論じる。
 
 

 
1. 科学的根拠に基づいてマスクの着用を支持する立場
まず,政府や企業が市民や利用者に対してマスクの着用を推奨・要請する上での根拠でもある,科学的根拠に基づいてマスクの着用を支持する立場について検討する。SARS-CoV-2 (COVID-19の原因となるウイルス)をヒトの咳と同等の速度で放出し,相対するマネキンが吸引するウイルス粒子の量を調べる実験(Hiroshi Ueki, Yuri Furusawa, Kiyoko Iwatsuki-Horimoto, Masaki Imai, Hiroki Kabata, Hidekazu Nishimura, Yoshihiro Kawaoka,2020)によって,相対する者が吸引するウイルスの量は,マスクを着用しない場合に比べると,吸い込む側が外科用マスク(いわゆる不織布マスク)を着用した場合は50%程度,吐き出す側が外科用マスクを着用した場合は30%程度まで低下することがわかった。また一方で,同じ実験によって,マスクのみではウイルスの吸引を完全には防ぐことができないことも示された。

マスクの着用は日本では強制的なものではないにも関わらず,多くの公共施設や飲食店で利用者にマスクの着用を求める掲示がなされ,また多くの利用者もそれに従っている。これほど多くの人が非強制的な「要請」を受け容れ従っているのは,先述したような科学的根拠の存在が重要な意味をもっていると考えられる。
 

2. ノーマスク
次にノーマスク運動,あるいはノーマスク主義について検討する。ノーマスクについての統一的な定義は未だ提出されていないが,ここでは,「思想・信条に基づき自分の意思でマスクの非着用を実践し,あるいは他者に求めること」とし,健康上の問題など自ら選択することのできない事情によってマスクを着用しない(できない)場合を含めないこととする。また,ノーマスクと似た意味で「反マスク」という言葉が使われることがあるが,これは,マスクの着用を支持する立場からマスクを着用しない人を非難するような文脈で使われることが多く,ノーマスク主義者の自認はあくまでも「ノーマスク」である。

ノーマスクは,マスクに関する議論のメインストリームである,科学的根拠に基づいてマスクの着用を支持する立場に対するカウンター的な性格をもっている。このため,政府や研究機関など比較的権威のあるメディアからこういった立場を支持する意見を引用することは難しいが,Twitter,Instagram,TikTokといったソーシャルメディアを通じて,その一部を垣間見ることができる。例えば,Instagramで「#ノーマスク」と検索すると,およそ1.5万件の投稿がヒットし,それらの一部を通覧すると,「ノーマスク」の語とともに次のような言葉がよく使われていることがわかる。
 
マスコミの嘘
コロナ(COVID-19を指す)は茶番
自分の頭で考える
同調圧力に抵抗する
意思をもって
マスクをしない自由
(唯々諾々とマスクを着用する人は)事なかれ主義の偽善者

(括弧内筆者)
 
上記のようなフレーズからは,ノーマスク主義者たちが,公権力やマスコミに対する不信感と,同調圧力によって自身の「マスクを着用しない権利」が侵害されることへの嫌悪感を抱いていることが読み取れる。一方で,「マスクが嫌いだ」や「マスクを着けることは悪だ」といった,マスクそのものに対する忌避を直接表現するような言葉は多くは見られない。このことから,ノーマスク運動,あるいはノーマスク主義は,マスクの着用そのものに対する抵抗というよりもむしろ,政府に対する不信や自身の生活様式に他者が干渉することに対する悪感情が,パンデミックという社会の激変の中で,マスクというひとつの製品を争点として噴出した具体的あらわれのひとつであると考えることができる。
 

3. COVID-19流行下のマスクの社会的意義
次に,COVID-19流行下のマスクが社会統合のためのユニフォームとしての性格をもっているということを,太平洋戦争下の日本国民の衣生活との類推によって示す。

太平洋戦争中,深刻な物資不足に直面した日本では,衣服の合理化が目指され,各種法令や普及運動によって,国民服やもんぺといった,機能的で簡素で安価な衣服の着用が推奨された。そして「欲しがりません勝つまでは」や「挙国一致」といったスローガンのもと,国民生活のあらゆる部分が戦争遂行のために動員され,衣生活も含め,ぜいたくな暮らしをする者は「非国民」として非難の対象となった。

「戦時中の国民服やもんぺ」は,銃弾を防ぐような劇的な性能はもたないものの経済的で丈夫で衛生面にも優れ,相当の合理性を保っていた点,政府によって政策的にその着用が推進された点,統一されたスタンダードの励行によって連帯感の醸成や戦争協力体制の構築に寄与した点,スタンダードに従わないものがコミュニティから指弾された点において,病原体を完全に遮断することはできないものの感染対策・感染拡大対策についてある程度の効果を発揮し,政府が積極的に着用を促し,着用することが感染対策に協力する意思の表明を意味し,着用しない者が周囲から白眼視される「COVID-19流行下のマスク」の性質に対応している。

以上のような類推から,マスクは,たんに病原体の飛散や吸飲を防ぐための衛生用品であるだけでなく,感染症の脅威に対して一丸となって立ち向かう人々が共通して身につけるシンボルとしての役割を果たしていると考えることができる。つまり,マスク着用によって,パンデミックという未曽有の災害に対応するための国家的な,あるいは世界的な取り組みに自分も参与しているのだということを周囲に示すことができる。そして,マスクという製品がシンボルとして十分な機能を果たす裏付けとなっているのが,先述した科学的根拠の存在である。すなわち,マスクは,科学的根拠に依拠することによってその正当性を認める人々を社会的に統合する,ユニフォームとしての性格をもつ。
 

4. まとめ――公権力と個人との相克関係
最後に,科学と宗教とのアナロジーによって,これまでの3つの議論をまとめ,これらの議論の背景としての社会構造について考察する。

現在の社会では,科学,とりわけ自然科学は,かつての宗教のように普く人々に受容され,信頼され,(しばしば盲目的に)称揚される存在である。科学と宗教とのアナロジーの妥当性は,例えば次のように説明することができる。

「実際に見たことはないけれど,教科書にも書いてあるし学校の先生も言っていたので地球は丸いと思う」ということと,「実際に見たことはないけれど,聖書にも書いてあるし神父さんも言っていたので神は存在すると思う」ということとの間に,ある程度妥当な対応関係が成立することから,科学と宗教はいずれも,(地球はどんな形をしているか,神は存在するか,といった)個人の知識や思考の範疇を超越するようなもの・ことに関して,論理的かつ統一的で,当該観念(科学または宗教)の正当性を認めている者が納得できるような説明を与える役割をもっていると考えられる。

そして,マスク着用は感染対策・感染拡大対策として有効である,という科学的根拠に基づく主張を否定し,あるいは無視するノーマスク主義は,同様の「科学対宗教」というアナロジーの中に位置づけるならば,「異端」である。

国家,あるいは政府といった公権力は,その時代の支配的なパラダイム(中世における宗教・現在における科学)によって権威づけられ,その権威を利用して社会統合を強力に推進する。それが可能なのは,科学や宗教といったパラダイムが,当該社会を構成する個々人を満足させるような論理性・正当性を備えているからである。他方で,公権力と結びついたパラダイムを疑い,あるいは公権力による統制を嫌う一部の個人は,宗教的権威に対する異端として,また科学的根拠に基づいてマスクの着用を支持する立場に対するノーマスクとして,社会統合に反発する。すなわち,マスク着用をめぐる一連の議論は,「公権力と個人との相克関係」という社会構造が,パンデミックという激変によって顕在化したものである。

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