ラジオ体操第8

これは一体どうしたものか。

私は現在、小学3年生である。
俗に言う、小3である。

そんな、人間として生きていく為に必要な社会力の基礎を学ぶべき大切な時期に生きる私は、只今、夏期長期休暇中である。
俗に言う、夏休み真っ盛りである。

俗に言いたいお年頃なのでご容赦いただきたい。

そんな、小学生が超マル秘ゾーンを堂々たる幼稚ぶりでお披露目して外界を練り歩くほど羽目を外しがちな、この余りある無限休み時間に、一世一代とも言える大事件が起きているのである。


私が今いるここは、私の住む町のグラウンドである。
田舎の小さな集落ではあるが、グラウンドはなかなか立派なものであり、囲むように植えられている桜の木は、その新緑の葉が夏の日差しに照らされ、眩しい程に青々としている。

実を言うと、私の気に入りの場所である。
世間の小学生ならば、当然の様な顔をして絵日記などに描くのだろうが、私はその様な俗な輩とは違う事を、断固主張したい。

私は見ているだけで良いのだ。
心が落ち着き、日々の疲れが癒される。小3だからといって侮ってもらっては困る。わけもなく卑猥な言葉を連呼して嬉しがるような学友と付き合うのは大変に疲れるのだ。ニワトリの世話の辛苦を忘れたとは言わせませんよ?あの、特有の臭いに私は慣れる事ができない。そして、何にも増して、腹を痛めて産んだ子を母親からもぎ取る精神的苦痛は計り知れない。一体、学校側は何を考えているのだ。こんな苦行を小3の幼子にやらせ楽しむなんて、この外道!!

ただし、学校側の人間とはいえ、美代子先生は例外である。これは最重要事項だ。

とにかく美代子先生は格別である。

美代子先生は品性が滲み出ていて、優しさも溢れ出している。その華奢な身体におさまりきらない何かが絶えず漏れ出ているのだ。歳も若く、昨年大学を御卒業されたばかりの新米教師である。そのお米の様に白くきめ細かい肌は透き通る様に冷たく、そんな儚さが私の心を揺さぶるのだ。

言うまでもなく、容姿は抜群に端麗である。こんな事を言うと、まるで私が、先生の容姿に魅せられただけの、その辺の程度の低いハレンチな輩と同じ様に聞こえるかもしれないが、決して違う。もう一度言おう。決して違う。鳥谷翼のような輩と同一視されては、私の人格は音をたてて崩れ落ちてしまうのだ。


ただし、勘違いがあるといけないので、念の為言っておくと、私も美代子先生のことはそれはそれは魅力的に感じている。長い黒髪は言葉を失うほどの美しさであるし、それになんといっても良い匂いがする。あれはどういった原理なのだろうか。この難題を解決すべく思案をめぐらした結果、私はひとつの答えに辿り着いた。



美代子先生は石鹸を喰らうておられるのだ。



尊敬する父に聞いてみたところ、その通りであると教えてくれた。



いや待て、いや待て。
今はそんな場合ではないのだ。
話が大きく逸れてしまった。
現実から目を背けようとも事態は好転しない。


私はグラウンドにいる。
大変気に入りの場所である。
しかし、今はどうにかこうにか
この場から逃げ去りたいのだ。
大きな桜の木が私をとり囲んでいる。
くそ、いっそ折れてしまえばいい。



現状報告をすべきなのだろう。



前述したように、現在、夏休み真っ盛りである。
つまり、それはラジオ体操シーズンの到来を意味する。

ご存知とは思うが、ラジオ体操は6時30分に高らかで陽気極まる音楽を垂れ流し始まるわけだが、結論から言わせてほしい。



現在、午後1時を少しばかり回ったところだ。





おわかりだろうか?


かなり完全にタイムオーバーである。
確かに、6時30分にラジオ体操は開始された。
私の知っているラジオ体操であるならば、ラジオ体操第2で終了するはずだった。終了しなければならなかったのだ。





たった今、ラジオ体操第7が終了した。



嫌だ。
もう我慢ならん。

汁と言う汁が全て身体から出てしまったではないか。
身体は痙攣を通り越し、ガクガクと震えている。
なんか濃いめの毛まで生えてきてる。指先からもさもさと。




すべての元凶は、悪名高き鳥谷翼、その人である。
奴は6年生で、ラジオ体操当番である。

ラジオ体操当番というのは、簡潔に言えば、
ラジオを持ってくる担当の人である。

しかし、それはあまりにも簡潔に言いすぎではないか。

奴はラジオ体操を支配していると言ってもいい。
言わば、ラジオである。これは、言いすぎている。



奴等6年生は自分達をラジオ体操取締委員会と呼ぶ。そのいかにも怪しい組織の首、すなわち、ラジオ体操取締委員会のトップがあの憎むべき鳥谷翼なのである。


私がこれほどまでに鳥谷翼を目の敵にするのには正当な理由がある。私は立派な小3であるから、理由もなしに人を憎んだりはしない。



あのくずやろうは美代子先生のおしりを触ったのだ。


許せん。ああ、許せん。
思い出しただけで堪忍袋の緒が切れそうだ。しかし、当時の私は堪忍袋というやつがどこにあるのかいまいちわからなかったので、尊敬する父に聞いたところ、


それは美代子先生のおっぱいだと教えてくれた。
堪忍袋の「緒」はおっぱいの「お」とほぼ同義だと。
別名乳袋とも言うのだと。


しかし、いくら尊敬する父の言う事であっても安易に鵜呑みにする訳にはいかない。立派な小3として。
私は意を決して美代子先生に聞いてみることにした。


先生のおっぱいの緒は切れますか?


すると優しき美代子先生は、私を静かに保健室へ連れて行ってくれた。

そんな優しい美代子先生の大変貴重値の高い、美しすぎて直視できないようなあのおしりを、ゲスの鳥谷翼はこともあろうにもみりもみりとさわりやがったのだ。許せん。許してなるものか。



そして今、このグラウンドで、また奴は私の憎しみを知ってか知らずか、私にイジワルをしているのだ!くそぅ!やめろよ!イジワル!






ラジオ体操第7は4時間40分ほどであった。




死ぬかと思った。
本当に。
生まれて二回目に死ぬかと思った。




第7だけは、もうほんと嫌だ。

ほとんど無酸素運動だった。

いやに背筋を鍛える運動だった。

ともすれば翼が生えるところだった。

翼などが生えたら私は生きてはいけまい。
奴の名を背負うなんて、ニワトリ親子を引き裂くくらい耐えられない。




きっと、鳥谷翼はこれをわかってやっている。

もしもこのまま第8が始まってしまえば、
私は確実に翼を得る事になってしまうだろう。
勘弁!勘弁!




第6が終わってから第7まではおよそ20分の謎の時間があった。




ちなみに、第4から第5にかけては7秒だった。






死ぬかと思った。
生まれて初めて死ぬかと思った。
ここが死を感じた初体験。
いや、もう死ぬところだった。






第6が7秒で助かった。






ダメだ、第8だけはダメだ。
もう、限界だ。


これは、私の直感だが第8はきっと恐ろしい。
第7の比ではないはずだ。



私は鳥になってしまう。
このままでは奴の名を背中に宿し鳥になり、筋力の乏しい私はきっと大空に羽ばたく事はできない。つまり、飛べない鳥になる。そうに決まってる。私が知っている飛べない鳥は、ペンギンかあのかわいそうなニワトリだけだ。とすれば、確実にニワトリになるのだ。言い切れる私はニワトリにされるのだ、鳥谷翼によって。そして、私が腹を痛めて産んだ子を鳥谷翼にもぎちぎられるのだ。くそぅ!ちくしょう!策略家め!私の卵をかえせ!




今朝、ラジオ体操開始時には20人程いた学友たちは、
今や2人。


つまり、グラウンドにいるのは、
鳥谷翼と私を含めたったの4人。



ラジオ体操取締委員会の連中はお腹が空いたので帰ってしまった。


鳥谷翼に少しばかり同情した。







私も帰ればいいと?
私は帰るわけにはいかんだろう!
なぜなら美代子先生と約束を交わしたのだから!

美代子先生は私が夏休みに毎朝ラジオ体操に参加すれば、私の机でいっしょに給食を食べるという約束をしてくれたのだ。

私はうれしかった。

理由はわからないが、美代子先生は私が堪忍袋おっぱい論を持ち掛けたあの日からどこか私に冷たかったのだ。



第7が終了してから17分が経った。鳥谷翼はなんだか泣きそうな顔をしている。ともにここまで闘った2人の学友は、私が美代子先生の堪忍袋に想いを馳せているあいだに消えてしまっていた。



グラウンドには小学生が2人。

鳥谷翼の持っているハンコが私のすべて。

奴のラジオ体操終了後にハンコを押すというくだらないこだわりのせいで、私はラジオ体操をやり遂げねばならないのだ。


何とかして奴からハンコを奪えないだろうか。

と策を講じていると悪夢の開始を告げる音楽がラジオから流れ出した。




やはり、鳥谷翼の様子がおかしい。
なんであんなに曇った表情をしているのだろうか。



ラジオが叫ぶ。









「ラジオ体操第8ーーー!

まずは二人一組で柔軟の限界に挑戦する運動!」





しくじったな鳥谷翼。
私がここまで粘るのは誤算だったろう。
私だって泣きそうだ。
もはや鳥にもなれないかもしれない。



続けてラジオから飛び出た不可解な指示に私は耳を疑った。





「一人は背中方向へ反り返り股から前方に頭を突き出して頭をへそにめり込ませる運動!もう一人はそれを見る運動ーーー!!!」











私の視線の先にはぽろぽろと涙を流しながら
懸命に反り返る鳥谷翼の姿があった。



この時はじめて、私は、
こいつ実はいい奴なんじゃないかと思った。







気がつくと私も涙を流しながら反り返る鳥谷翼を
懸命に、ただ、見ていた。

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