さよならTwitter
夢から覚めた瞬間も、太陽の光が瞼の裏に留まっている間も、トイレの中でも、歯を磨いてる最中も、朝ご飯に白米を食べるかプロテインだけにするか迷っている時も、鏡の中の自分と目を合わせている時も、空の青さにいちいち感動している時も、知らない人とすれ違う雑踏の中でも、人と会って話している時も、風に当たりながら外を見つめている時も、真顔でスマホをいじっている時も、真面目に仕事をしている時も、楽しいデートの最中も、セックスの後も、ソファに寝転んでいる時も、朝起きてから寝落ちする瞬間まで、1秒も欠かすことなく沢山のことを思う。
視界に入る全てのものに対して、色んなことが気になって、色んな発見をして、色んな違和感を覚えて、色んな考えが浮かんで、ぐるぐるぐるぐる渦巻いていく。沢山の疑問が浮かんで、その疑問に一つ一つ考えを巡らせて一つ一つ答えまで出していく究極の自問自答をし続けたかと思えば、万華鏡の様に四方八方に想像が繰り広げられ、終わりのない連想ゲームが繰り返され、頭の中がぎゅうぎゅうになっていく。気にしすぎじゃない?なんでそこまで考えるの?と言われても、私は逆に、なんで貴方たちが全然気にしないのか、そこまで考えないのか、更にその点についても気になってしまうし、考えてしまう。
幼い頃は「私って”何”?」ということをずっと考えていた。自分の外側に答えはないということはわかっていたので、自分の中で答えを探し続けていた。自分に対する大きな謎が脳内を支配しているので、スペースを確保するためなのか、日々感じたことは一つ一つ勝手にこぼれ落ちて消えていく。そして次の瞬間にはもう何かが瞬く間に流れこんでくる。生まれてから一度も頭の中が静かになったこともスッキリしたこともなかったと思う。
絶え間なく何かを感じているから、そのどれかを適当に選んで、適切な言葉に変換して、頭から口まで下ろして、自分の内側から外側に出して、誰かに伝えることはとても労力がかかる。そんな労力をかけたって、私の問いかけに対して満足のいく反応をしてくれる人は誰もいないだろうということはわかっていた。
おままごとをしたり、ドッヂボールをしたり、好きなアイドルの話をしたり、昨日観たテレビの話をしているのだから。それでもそんな状況に迎合することもなく、周りに対する違和感と誰にもわかってもらえるはずがないという失望感を抱えて、私は永遠に考え続けた。他人と薄っぺらい会話をするくらいなら、自分の頭の中で自分と対話している方が遥かに面白い。いつか誰かとこんな風に生き生きと対話ができることを願っては落胆してきた。自分がもう一人いてくれたら面白いのにと思ったけれど、分かり合える人がこの世のどこかにいて、いつか出会えることを信じていたから、自分でいることを諦めなかった。
考えるのをやめなかったから、私は自分の感性を殺さずに済んだのだと思う。学校やら会社やら何かしらの社会に押し込められて沢山の人間に囲まれていると、必ず何らかの感情が芽生えてくる。その度に見て見ぬ振りをすることなく、いちいち向き合って考え続けた。他人と意見が合わなくても迎合しなかった。他人とぶつかるたびに、自分が明確になっていくから。違和感を覚えたら目を瞑ることなく、何が原因なのか紐解いていった。嫌だと思う気持ちも押し殺さずに大切に尊重してて自分の信念や美学を明確にしてきた。私という謎を理解したかったから。「私って何?」という幼い頃から抱え続けてきた壮大な謎を解明したかったから。
色んな経験をして自省していくたびに、心の中のモヤモヤや、頭の中のぐるぐるが、言葉として輪郭を表すようになってきた。思考が熟成していく度に自我が強くなり、「私」が形となっていった。経験に裏付けられた言葉の力を借りて、自分の中で答えを出して表現できるようになっていった。自問自答の末に出たアンサーも、トライアンドエラーの結果も、人と対峙したときに湧き上がった些細な感情も、嫌なことからの学びも、全てが自分をつくっているのだから、せっかく感じたことは一つも取りこぼしたくなくて、手のひらで掬い上げるように、言葉にして残したくなった。
そんな時にちょうど良いツールが現れた。私はまだ10代だった。色んなトピックに対する色んな考えが秩序なく激しく流れ続けていくTwitterは、私の頭の中の景色とよく似ていた。そんな私とTwitterがフィットしたのは自然なことだった。
頭の中の文字を音声に変換して口から出すよりも、鉛筆を握って紙に押し付けて手を動かして文字を書くよりも、スマホを握って親指を動かす方が遥かにスムーズだった。いつもだったら5秒後には脳内から消滅してしまうようなことも、ちょっとメモっておこうという感じで気軽に記録しておくことができた。ツイッターというスペースをお借りすることで、ワーキングメモリが広がり、感情や思考を整理してスムーズに消化できるようになった。あの瞬間にこんな感情でこんなことを考えていたのかと客観的に自分を観察できるツールにもなった。
幼い頃から頭の中で渦巻いていた行き場のないモノが、やっと目的地を見つけたように勢いよく流れていった。私の頭の中と同じように、ツイッターもカオスだから都合が良かった。目の前にいる特定の誰かの表情や反応を気にする必要がないので、何も気にせずにただ感じだことを無責任に放り出すことができた。様々な人々の思考が流れる秩序のない混濁とした激流だから、汚いものも、酷いものも、荒削りのまま、気軽に吐き捨てることができた。下品な表現になるが、Twitterは便所のように、自分の内側に溜まったものを受け止め、流してくれた。モヤモヤも、イライラも、頭の中で渦巻くぼんやりとした思考も、140字の制限のおかげで極限まで削りに削ってシンプルな造形美として昇華できるように思えた。
自分の考えを言語化してネットに放つと、日本のどこかで共感してくれる人が現れた。ポツリポツリと増えていった。この地球のどこかに、私と同じような感性を持ち、私と同じような考えをして、私をわかってくれる人が確かに存在するんだ。ゴミ山の中から宝物を見つけ出したような感動があった。その喜びは私だけでなく、相手も感じていたようだった。私の発言で誰かが救われ、その事実に私も救われた。思想が違うもの同士でも、こんな考え方もあるのかと新たな気づきとして尊重し合えることもあった。モヤモヤを言語化してくれてありがとうと感謝されることも多々あった。だから私は呟き続けた。呟くことで毎回何かしらの反応があり、感動があったから。叩かれたくないなら公開しなければ良いじゃないかと言われても、一度も鍵をつけずに発言し続けたのはこのためだ。傷ついたとしても血まみれになったとしても、その宝物を見つけ出す感動がある限り、私はこの荒野で呟き続けた。
私の考えは一般論とはズレていたり、世論と真逆であることが多かった。引リツには大量の反論が湧くし「頭がおかしいんじゃないか」「逆張り乙」などと叩かれることも多かった。でも人と考え方が違うことは悪いことではないし、人と違う意見を持つことを恐る必要もないということを、自分の姿勢で示して伝えたかった。だから私はどんな考えも恥じることなく堂々と発言し続けた。こういう考えを持つ人間が確かにここに存在しますよ、日本のどこかで元気に生きてるよ、どんな角度で世界を見ても良い、他人や世論と違う意見でも良い、私は味方ですよ、と日本のどこかで違和感を抱えながら暮らしているそこの貴方、そしてかつての私に伝えたかったから。何の気遣いもせず、誰にも忖度もせず、誰の影響も受けず、真っ直ぐに発言し続けたかったから、Twitter上では誰とも馴れ合いをせずに孤高を貫いてきた。
Twitterはネット上の仮想空間だが、身の振り方は現実世界でのリアルな自分が滲み出てしまうものだと感じる。観察していても、村社会で生きる方々はTwitter上でも、フォロワーを増やすためなのか誰かに擦り寄って媚を売ったり、コツコツ声を掛け合って関係を築いたり、傷を舐め合ったり、馴れ合いをしたり、気を使い合ったり、悪口を言い合ったりしている。しかし馴れ合いをしてしまうと、馴れ合った相手と違う意見を発信すると気まずい空気が流れたり、真逆の意見をぶつけると攻撃だと捉えられてしまったりするらしく、無駄なトラブルも勃発しているように見える。FFと違う意見をポストしただけで「バチバチしてるぅ〜」と勝手にゴングを鳴らされてしまうのだから、困ったものだ。他人同士なのだから意見は違って当たり前だし、意見が違ったとしても敵意があるわけではないのにね。かどを立てないように気を使ってふわふわなボールで無駄なキャッチボールを繰り返すよりも、チクチクと水面下で意地悪するよりも、私は鋭い刃物で刺し違える覚悟を持ってまっすぐに全力で投げていきたかった。それを貫いたから刺さる人には刺さったのだと思う。
Twitterを長年続けていて思うが、貴重な意見を持っている面白い人はどんどん叩き潰されて消えていってしまう。キラリと輝く呟きをゴミ山から発見することもあるが、フォロワーは少ないままでバズることはない。むしろ最近はこの治安の悪い空間で魑魅魍魎に襲われぬよう、ひっそりとブックマークかいいねだけつけて守るるようにしている。
Xになってからは、稼ぐ為にバズる為に呟いている方々がとても増えたように感じる。人の頭の中の葛藤や心の中の本音から自然発生的に思わず漏れた一言が、ぽっと世に放たれて誰かの琴線に触れて波紋のように広がっていく素敵な世界が、かつてのTwitterにはあったはずなのに。作為的なものでバズって何になるのだろうか。そんなもので得たフォロワーに何の意味があるのだろうか。みんな結果だけを求めて結果だけを晒して結果だけを見て結果に対して一言ケチをつけているわけだが、私は結果よりもその結果に至る脳内の葛藤や心の紆余曲折などを表現してほしいと思うのだけど、そんなものが読めるのはもう純文学しかないのかもしれない。だから私はそういうものをこちらで書いていきたいと思う。
私が好きだった頃のTwitterはもう存在せず、Twitterは終わったのだ。(もうXになってしまったしね)
私はインスタではなくTwitterが好きだった。いくらでも取り繕える表面的な情報なんていらない。他人の目を気にして作りあげられたものに価値はない。頭の中が知りたい。心が知りたい。何を感じて何を考えてるのか魂の叫びを聞けるのが好きだった。
私がインスタに飽きてもTwitterに飽きなかったのは、人が誰とどこで何しているのかには一切興味がなく、人が何を感じ何を考えているのかに興味があったから。加工済みのハリボテ笑顔ではなく、その裏に隠れた人間性や本音に興味がある。フェイクではなくリアルに興味がある。それが露わになる場所だったから好きだった。
せっかく匿名で、本音を文字をで綴れる場所なのに、その特異性が活かされることなく軽んじられたり悪用されたりすることが多くなって悲しく思う。でも私だってこんな腐った場所にずっと浸っていると、嫌な気持ちになり、嫌な気持ちを昇華するために、嫌なトピックに関する嫌な呟きをして、嫌な反応が返ってきて、また嫌な気持ちになってそれを昇華するために…という負のループに陥ることもあった。でももうウンザリしてしまったのだ。もう嫌な気持ちになる空間にわざわざ身を置きたくないと思うし、極力誰も傷つけたくはない、もっと丁寧に、もっと深く、愛を持って文章を綴っていきたいという気持ちがすごく強くなっている。それもこれもやはり、私の呟きに愛を感じてくれたフォロワーさんたちのおかげです。
Twitterという激流の中では、丁寧に言葉を尽くすことができませんでした。だからこれからはnoteを通して、少しでも皆さんの世界が広がったり、何かを考える視点が増えたり、世の中を見る角度が変わったり、気持ちが楽になったり、生きやすくなったり、暇つぶしになったり、私の大切なフォロワーさんに、何か少しでも良い影響を与えられるようなものを書ければ良いなと思っています。初めのうちは試験的に色んなトピックを色んな表現でポンポン出していきますので、感想を頂けたら嬉しいです。皆様が望むものを一緒に創り上げていきたいので、有料部分(メンバーシップ加入後に読める)に質問箱を設置します。インスタの質問箱は文字制限もあるし不定期ですが、こちらは文字制限もなくいつでも投稿できるので、書いてほしいことでも悩みでも何でも良いのでいつでも気軽にどうぞ。皆様の幸せを願っています。殺伐としたXではなく、愛のあるnoteでまた会いましょう。そしていつかその愛をXにも循環させていけたらいいなぁと願っています。
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