私が抱えていた承認欲求とそれが完全に満たされた理由
小さな子供が空を見上げて「空は何で青いの?」「青じゃなくても良いなら何色にしたい?」と聞けば、隣にいる人は一緒に空を見上げながら何色が良いか語り合ってくれると思う。
でもいつからだろう、大人になってしまった誰かの前で純粋な疑問を口にすると、「え?」という顔をされて流されてしまうかもしれない。「不思議ちゃんだね」と失笑されるかもしれない。「空気読めよ」と煙たがられるかもしれない。「そんなこと考えても無駄だよ。暇だね」とバカにされるかもしれない。「常識だから」と突っぱねられて、まともに会話すらしてもらえないかもしれない。
大人たちはみんな忙しいから、そんな”くだらないこと”を気にしている暇はないのだ。現実を生きるので精一杯で、自分の周りの問題で手一杯で、常識のある狭い世界の中で、ルールに従って、疑問を持たずに、一つの正解に向かって生きていこうとする。
だから、かつて子供だったみんなは、いつからか口を噤むようになるのだろう。誰だって子供の頃は、何にも汚されていない純粋な疑問をたくさん持っていたはずなのに。煙たがられたくもないし、嫌われたくもないし、仲間外れにもされたくないから、みんなに合わせて生きていくようになる。その狭い世界の中で、一つの正解しかないテストを受けて、採点されて、順位をつけられて、他人と比較し合い、どっちが上だ下だとジャッジしながら、足を引っ張り合いながら、結局足並み揃えて生きていく。
私はそんな世界に馴染めなかったし、馴染むつもりもなかった。初めて社会という集団に入れられた幼稚園のころからずっと違和感を抱えて生きてきた。なぜ何の疑問も持たずにルールに従えるのか。なぜ仲間外れにされることをそこまで恐れて周りに合わせるのか。なぜ本音を言わずに当たり障りのないことしか言わなくなるのか。
口を噤まなければ、ルールに従わない問題児としてレッテルを貼られるかもしれない。空気の読めない変人として扱われるかもしれない。性格の悪い女に見えるかもしれない。分かり合える人も話の合う人もいなくて絶望しかけたこともあったけれど、それでも自分を殺さずに今日まで生きてきた。私はただ、子供の頃の純粋な感性を殺し切ることなく、生き残れただけなのだと思う。だからお利口な大人として社会で上手く生きている人から見れば、私はガキくさい子供みたいに見えるかもしれない。
大人になっても口を噤まずに堂々と生き続けているとそれが個性として認められ、「面白いね」とか「考え方が好き」とか「中身が好き」とか言ってくる人たちが増えてきた。私の言葉に真剣に耳を傾けてくれて、空気の読めない発言をしても怒ることもなく、辛辣なことを言っても面白いと笑ってくれるのだ。
でもある時、恐ろしいことを言われた。
その言葉は私の深い部分に深く刺さり、自分の根源を揺り動かし、この世界で生き続ける限り満たされない穴を開けることになった。
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