ナンバさんの「専攻分野反転法則」についての記事を読んで

twitterでよくお見かけするナンバユウキさんが、以下の興味深いnoteを書いていた。
ナンバユウキ「専攻分野反転法則の哲学:美学と倫理学

詳しくは読んで欲しいのだが、「専攻分野反転法則」とは、ナンバさん曰く、その代表的なものとして「研究している対象にまつわる実践が評価する価値との反転」がある。

おそらく、「法則」と言っていることと挙げている例(真偽はともかく、政治学の研究者は根回しが下手、徳倫理学の研究者は徳があるように思えない)から考えると、
「当の研究者の研究実践が評価している価値(根回しとか徳)はあれど、その価値をその研究者自身に反照してみると実は価値規範的によろしくない」という法則がある、と言っているように思える。

この法則に似た話は、ぼくもよく聞いてきたもので、心理学者は自分の心に悩みを抱えているとか、教育学者が自分の研究室の院生の指導に失敗しがちとか、教育工学者が開発対象としている能力に欠けている、とか、そういったものだ。(ちなみに、この現象をぼくの周りの教育工学者たちは「ブーメラン」と呼んでいる)。

その上でナンバさんは「規範的熱」というタームを加えて、発展的にある種の反転を強調して論じていく、

まず、規範的熱の専攻分野反転法則とは、「あるxの実践に対する規範的熱の高さと哲学者の専攻分野は反比例する」とのことだ。

これは例が、ナンバさん自身(美学者)なのだが、ナンバさんは倫理的実践に対する規範的熱が高いのだけれど、美的実践を分析する自身の規範的熱はそこまで高くない(おそらく倫理的実践におけるそれと比べると高くない、という意味)そうだ。

そして、この法則を踏まえた美学者と倫理学者の交差、つまり、「美学者は倫理学者より倫理的実践に対する規範的熱が高く、倫理学者は美学者より美的実践に対する規範的熱が高い」という反転交差の図式が提示されている。

さて、この話は二重にも三重にも、とっても興味深い。

絶対は存在しない、と主張する人が、それが絶対だと思い込んでいる、という相対主義のパラドクスも絡んでいるようにも見える。

とはいえ、ぼくの個人的興味は別のことにある。別のこと、というか、この法則が全く自分に当てはまらないように思えることが興味深い。

つまり、ぼくはドゥルーズのスピノザ解釈の研究をしているのだが(スピノザの主著が『エチカ(倫理学)』であることは誰もがご存知であろう)、ぼくは何とも比べることができないほど、絶対的な仕方で、倫理的実践に対する規範的熱が高いからである。

これに関わるぼくの身に起きた例を挙げると正直キリがない。ぼくは至る所で、その辺で出会った人と倫理的戦闘を繰り返してきた。

ぼくが人生上、一、二を争う戦闘を行った際に、その場を開いていた60歳ぐらいのその道の熟練者からは「お前みたいな野武士がごくたまに存在する」「もし戦争になるかどうかの瀬戸際の話の場に俺が行く時はお前を連れて行く」と言われたほどだ。

武士という語を用いたので、それに絡めて、ぼくの考えを言うと、ぼくは、研究とは、自らの刀を磨き上げ、あるいは時に叩き折り、より切れ味の鋭いものを身を持って習得していくこととして考えている。

かの熟練者にぼくがそう言われたのは、25歳の頃で、ぼくが本格的に28歳で大学院で今の研究をやる前のことだ。ぼくはこの刀をより一層磨き上げたくて、そしてまた、自分を過信したくないために、研究の道に来た。

今も様々なところで、この刀の実践的能力を見極めるために、その時が来たら、必ず鞘から抜いて戦闘している。そして、研究をしてからの方が一層切れ味が上がっているのを実感している。それはこの刀に切られた人の変化から明らかである。(ちなみに、まじで芯を食った一閃がなされた時、相手は号泣きする。泣かせたわけじゃない。本当に刀がその芯に達した時、人は泣くのだ。全く悪い意味ではない仕方だ、多分、みんな何かしら経験あることに賭ける。そして、この経験事例も一つじゃない)

そしてまた、それもあって、私は今、哲学研究者としてあるコンサル企業の監査役の立場についている。基本的に、決して見逃せない倫理的場面においては、すぐさま刀を抜く。それが許される、というか、そうでなければ仕事にならない立場なのだ。

だから、ぼくにとって非常に興味深いのは、ナンバさんや、いわゆるその反転法則が当てまはる方と、ぼくの生の様式ないし様態が異なる、ということであり、と同時に気になるのは、そうした我々の二つの倫理的規範のどちらが倫理的であるのか、ということだ。

俺が倫理的ではないのか、そちらが倫理的ではないのか。これこそ、私が常に望んできた戦闘であり、欲を言えば、本音を言えば、俺は負けたい笑。なぜなら、もしそうなるなら、その絶望の先で、俺はより倫理的になれるかもしれない、と思うからだ。

スピノザ研究者がスピノザ主義的ではない、とか、ドゥルーズ研究者がドゥルーズ主義的ではない、とか、俺にはよくわからない。勢いでいうと、なんかそれで恥ずかしさとかないのだろうか?とすら思ってしまう。

俺がドゥルーズのスピノザ解釈をやっているのは、彼らが俺が比べ物にならないくらいの切れ味を持っていることを俺は知っているからだ。俺の刀はまだまだ鈍(なまくら)だ。それじゃあ刀が可哀想だし、なんで生きてんだろう?と思ってしまうから、俺は日々研究する。

とりわけ、スピノザはいくつもの記録が示しているように、彼自身が真に彼自身の思想を生きた人間であった。スピノザを「哲学者たちの王」と評するドゥルーズはこう吐露する。「我々がいつか、その霊感に達する時が来るのだろうか」と。俺も本当にそう思っている。



喫茶店代か学術書の購入代に変わります。