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舞台上での交流〜役者の身体性について〜

※俳優というのは、主に舞台俳優として、また舞台で表現する人の事に限定して書きます。

演出や講師をしていると、特に若い役者と接する機会が多いのですが、ここ数年、特に高校生から20代半ばくらいの役者のコミュニケーションに手段の違いがあると感じている。
特に10年代に入り、iPhone4の出現は世の中ほとんどを接続可能し、誰にでもコミュニケーションが取れる手段を手に入れた。
人類史の中でも情報革命はこれまでの世界の常識を覆し、あらゆるものは進化し発展を遂げたのは間違い無いだろう。デジタル革命は人類を前に進めた。
ただし、アナログ型コミュニケーションの代表である演劇という分野に限っては大きな弊害をもたらすのも事実。
SNSの普及により、誰もが発信できる世の中になり、一昔前と比べて誰もが公演を企画し、アーティストとして、観客として参加出来ることになった。生活の苦痛を体験している日常生活に対しての癒しの措置としては演劇は大きな拠り所になっているのは間違いない。その現象自体はいいことである。大きな社会貢献である。
ただ、ここに目をつけて文化活動から資本活動になった興行的演劇は「お金を稼ぐ」という目的なので、この場合の演劇作品は演劇商品となる。アーティストの作品ではなく、商人の商品になる。
コロナ禍での演劇公演は非常にリスクが高い。現在コロナ禍での演劇公演を主宰・演出をしている身としては頭が悪いとしか思えない。ただ、そんな頭がおかしい人しか公演なんて打てる状況では無いはずだ。今回は特別処置としてオンラインでの配信も行っているが、あくまでも演劇は一つの空間・時間を役者と観客が共有する世界を想像する行為なので、オンライン本質とも言えない。ただ、どうしても観たいけど(住居環境によって)観られない、感染リスクということを鑑みるとオンラインでもいいから観たいという声もあるので配信はする。ただし、売上としては現在の配信チケットの売上と配信に掛かる諸経費で換算すると赤字である。それは営業ができていないからだけど。。

話を戻すと、10年代に入り、ネット上でのコミュニケーションが日常になってしまった現代において、リアルでのコミュニケーションが出来なくなってしまっている若者が多くなっていること。
つまり、リアルのコミュニケーションとは、自分以外と身体・声でコミュニケーションを取ることである。電話はまだしも、LINEやSNSでのコミュニケーションは

そんな違和感を日々思っていたのですが、とある偉人も同じ意見で震えました。

以下、偉大な演出家である故蜷川幸雄氏の引用です。

「コンピュ ータを中心にした生活が主流となり 、ネットとケ ータイさえあればほぼすべてが済んでしまうことで身体もコミュニケーションの形も大きく変わってきている 。ケータイで通話すらしないで 、メールによるコミュニケ ーションが増加している 。メールだと自分が相手に何か言うときの恥ずかしさが全部消えて楽だから 、ここ数年 、ぼくのケータイにも若者からはメールばかりです 。そうすると人間関係がますます生々しくなくなっていくんですよ 。稽古場に入ってくるとき 、黙って知らん顔して入ってくるなんて者もいる 。肉体と肉声を総動員して他者とコミュニケーションをする必然性が減っているから 、人と会ったら挨拶するという感覚も失せ 、声も小さくしか出さなくなっているのかもしれません 。」

「デジタルの進化自体はとてもいいことだと思うんですよ 。そこから新しい身体表現が生まれることを目撃できる世代がうらやましくすらある 。ぼくももう少し若かったら 、大いにネットを活用したかった 。七七歳の今では一流になるところまでいけそうにないから手を出しませんけれど 。ただ 、デジタルの進化が世界全体の生活を画一化し 、若者の顔を似せてしまうとすればそれはもったいないと思います 。」


—『身体的物語論』蜷川幸雄著

蜷川さんの言葉の通りだと思う。
例えば稽古場の雰囲気作りのことを演出家はよく考えている。
自分の場合はわざと早めに稽古場に入る時や、稽古時間ギリに入る場合を使い分けている。(今は稽古前の掃除や消毒もやっていたり、PCでの事務作業があるので、若手に手伝いを頼んで一緒にやってもらっている)。稽古初期の段階は早めに入り、稽古場に入ってくる時のドアの開け方、挨拶の声をチェックしてキャストのその日のコンディションや緊張具合を見ている。逆に馴染んできて、緊張感が無い場合(若手が多い場合は)はギリに入って、少し大きめと張りのある声で挨拶して多少の緊張感を高めたりする。
※この辺りを演出家はやっているのですが、現場で演出家は1人しかいない孤独の立場であり、共有したいのでまた記しておきます。本当に演出者って凄い。嫌われ者の役割を引き受けているので尊敬します。

日常生活のコミュニケーションはゲームであり毛づくろい。コミュニケーションのためのコミュニケーション。それはその通り。人間同士のコミュニケーションは大事である。
ただし、稽古場はアーティストにとっての仕事場でもある。集中する時は集中しなければならないし、日常的なコミュニケーションから劇世界の非日常のコミュニケーションゲームは全くの別もの。そこを使い分ける経験(人生経験)と身体性がなければ稽古場の緊張と緩和は無くなってしまう。(そのために演出家は陰で色々と観察して考えている。)職業役者ではなく、いつまで経ってもアマチュアである。

リアルなコミュニケーションに慣れていない(ネット上のコミュニケーションに慣れていて、日常と非日常が混ざっている)若者はそのリアルな身体感がないので、どうも芝居が信じられないものになってしまう。ネット上でのコミュニケーションに必要なのは声や身体性ではなく、技術(知識)と戦略を要する。つまり、頭がいいということ。それが芝居に出ているため、台本と動きを覚えればそれで終わりというのが役者の仕事であるという風潮も感じる。身体性は演出がつけるし、声はマイクで拾う。感情は作家が説明的に書いてくれる。もう、優秀なスタッフによって成立してしまうので、なんでも簡単に承認欲求は満たされてしまう。もちろん、しっかりとプロの自覚がありアーティストの仕事をしている場合はそうでも無いのだが。プロは身体性のキープと向上をするために、レッスンに通ったり、発声練習を日夜している。幸いにもかつての教え子には口酸っぱく言っているので自己鍛錬を継続している人が多く嬉しい限り。身体は代替え不可能な道具なので、鍛えるしか無い。簡単に、すぐに手に入りやすいものは脆くて壊れやすい。100均の商品と同じだ。
ネット文化として、ライブ配信のアプリを使ってファンを獲得する人もいる。方法論としては大変面白いし、努力次第でファンを増やせるのだから良いことだと思う。ただし、手段に影響されて目的がなくなってしまう人がほとんどだ。とある配信アプリの社長も、危惧していることであり、「努力の方向性を見失わないように」と言っている。SNSは使い方次第によってはドラッグになる。エビデンスもあり、SNSによって強制的に分泌されるドーパミン量は麻薬と一緒である。よほどの精神力がなければ舞台役者との両立は難しいだろう。演技面で言えばデメリットばかり。むしろ、そのような環境がが手に入りやすくなってしまった現代は一昔前に比べて不幸だとも感じる。

とまぁ、感じたことをアウトプットとしてメモ的に書き殴っただけなので、この辺りにします。

何が会いたいかというと、公演を観に来てくれると嬉しいです。

チケット申し込み
https://ticket.corich.jp/apply/111156/001/

配信・アーカイブ視聴→
v2.kan-geki.com/live-streaming/ticket/260

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