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はじめての「サラメシ」。

私いま、「サラメシ」してる!!

にわかにテンションがあがった、今日のランチタイム。
明太子うどんをすすりながら、一人サラリーマン感に酔いしれていた私。

“ランチをのぞけば 人生が見えてくる  働くオトナの昼ごはん それが「サラメシ」”

お昼時になったら財布を片手に、同僚や上司とごはん処に立ち寄る。そんなオフィス街の一コマには、密かな憧れがあった。


しかしコロナ禍に入社した自分は、ほどんどが家メシで、ろくに「サラメシ」れていない。本社・工場は、お弁当を注文するスタイルなので、財布片手に・・・という鉄板のサラメシはかなわないし、そもそも工場にはほとんど出社する機会がなかった。


だから、久しぶりに横浜営業所に出社した今日は、いわゆるサラリーマンの昼食とやらを、ここぞとばかりにとってみたくなったのだ。

4月に入社した新人2人を誘う予定だったが、思いの外打ち合わせが長引いていたので、今日のところは一人でサラメシへGo。

夏を先取りしたような晴れやかな陽気の下、地下へ続く階段を下り、横浜ボルタレストラン街へ入ると、マスク姿のサラリーマンたちで賑わっていた。やっぱり財布片手に、同僚なのか上司なのか、気心の知れたメンツと連れ立って入店していく、日本の戦士たちがたくさんいた。
コロナ的には芳しくない人手なのかもしれないが、働くオトナは腹が減る!とはまさにこのこと。はなまるうどんの行列なんて、特にそれを物語っていた。急ぎ足でテイクアウトを持ち帰る面々もいる。

安さと早さを考えると、やっぱりはなまるうどんかなー。
定食屋さんもいいなあ。でもちょっと高い。
地下街を軽く2,3周はした末、ようやく行き着いたのは、自家製麺「杵屋」。

入り口のサンプルにあった明太子うどんにそそられて、店を覗くとカウンター席に一つ空きを見つけたので、入店。
アクリル板を挟んで左隣に座るサラリーマンが、盛大に麺をすする音がする。
チラッと見やると、食べているのは、牛肉ぶっかけうどん。極めてうまそう。
丼ものと麺のセットメニューにも目移りしかけたが、結局、明太子うどんに決めた。

「無料で半玉増量できますが、いかがいたしますか?」注文をとりに来た店員さんからの嬉しい問いかけに、迷わず「増量で!」と即答。

うどんが来るまでの間、ほうじ茶を飲みながら店内を見渡すと、ありふれた風景のはずなのに、自分にとってはとても新鮮な光景が広がっていて、思わずにやけてしまった。

上司と同僚コンビも、私と同じお一人様も、みなそれぞれがひとときのランチを満喫している様子に頬が緩む。

ズルズル。ズルズル。ズルルルル。
みな勢いよく麺をすすっている。

「満席です!」店員さんのコールが店内に響く。コロナで多くの飲食店が痛手を負う状況が続くが、このお店も例外ではないだろう。そんな日々の中で、ひとときのサラメシは、メシを提供する側にとっても、メシをありがたく平らげる者にとっても、かけがえのない時間なのかもしれない。

運ばれてきた明太子うどんは、ひんやりとしたどんぶりに盛られ、光る明太子の赤が余計に食欲をそそった。口に含んだそれは、もちろん、文句なしの美味しさだった。


仕事を終えて帰宅すると、火曜日とあって、ちょうど「サラメシ」が放送されていた。

今日のテーマは「夜中メシ」

深夜の羽田空港で、飛行機の機体を洗浄するスタッフのごはんタイムや、印刷工場の深夜社食メシなど、夜中に働く人たちを支える真夜中のサラメシが紹介されていた。
特に後者は、同業者というだけあって新鮮だったが、その中で、24時間生放送のテレビショッピングを支える、コールセンター職員について取り上げられていた場面が目に留まった。

24時間365日、年中、人の購買意欲を掻き立てるテレビショッピングと、それにあわせて深夜に激務をこなす職員には、正直度肝を抜かれた。

つかの間の休息時間は午前4時半頃。サラメシはコンビニ弁当とコンビニスイーツという組み合わせで、短時間の間にそれらをかき込む姿は、お世辞にも身体に良さそうだとは思えなかった。その上、休憩時間を終えて向かう先は、際限なく消費欲を煽られるテレビショッピングという、資本主義社会の典型例のような仕事だと思ってしまった。

ただ、サラメシという物語を通して、改めて彼らを見つめてみたとき、私の蔑視はゆるやかに歯止めがかかっていった。

自分は深夜にコールセンターの激務など絶対こなしたくないし、利潤追求を求め続ける社会システムはやっぱり変えなければいけないとか、労働者はなぜ気づかないんだろうと、歯がゆさを覚える一方で、彼らは彼らなりにその仕事に責任やプライドを持っていたり、誰かがその商品に助けられていたり、私の実感には及ばないところで、些細な人々の何気ない思いや逡巡が、至るところにこぼれ落ちていることを感じずにはいられなかった。

そして自分が標榜している、「人間活動家」とはつまり、そういうことなんじゃないかと思った。

言うなればサラメシ。同じ釜の飯を食らうことで、ほだされてしまうもの。合理的に考えれば無駄だったり、無価値なのかもしれないけど、放っておけないもの。もしかしたら、魂が宿っているかもしれないもの。そういうものを、たとえ大きな大義を貫きたくなっても、せめて蔑ろにはしたくないと思った。引き裂かれながらも。

聞けば、ちょうど5月でサラメシは10周年を迎えたという。

「ささいなことからしかスタートできない」

ナレーションを務める、俳優の中井貴一は、この10年、誰かを思いやる気持ちと、それにより生まれる「小さな喜び」を大切にしてきたという。ある家庭では、母親がイチゴをお弁当箱に詰める際、子どもには実の方を入れて、夫にはへたの側ばかりを入れていた。それが番組取材の日は違ったそうだ。

 「職場でご主人が、『今日は実の量がすごく多い』って喜んでいた。そこなんですよ。この番組は、おいしいものを集めているのではなく、家族にお弁当を作ってあげるとか、ちょっとした気持ちのやり取りを伝えているだけ。そうしたやり取りが家族の絆を作ったり、社会の基礎を築いたりする。その結果、日本の民度も上がる気がする」


そうした視点が、政治家をはじめ今の世の中に欠けているとみる。

「結局、ささいなことからしかスタートできないんですよ」

当たり前のことに価値を見いだし、ありのままの暮らしを肯定するよう努める。

「(昼食という)ごく普通のことが面白がられているんですよ。今のテレビにはそれが足りていないと気付かされた」
「誤解を恐れずに言えば、何があっても結局、人は食べる。番組を作る側なのに、取材先にそれを教えてもらっている」


何があっても結局、人は食べて、寝て、また前を向いて生きていくしかない。
そんな姿を人間活動家も感じずにはいられない一日だった。


「真夜中にだって働く大人たちがいる。だから今日も朝が来る」


今もまさに、働く大人たちがいる。
だから、また、朝が来る。

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