カエルのキス『ラカンはこう読め!』99-101頁

二、三年前、イギリスのTVでビールの面白いCMが放映された。それはメルヘンによくある出会いから始まる。小川のほとりを歩いている少女がカエルを見て、そっと膝にのせ、キスする。するともちろん醜いカエルはハンサムな若者に変身する。しかし、それで物語が終わったわけではない。若者は空腹を訴えるようなような眼差しで少女を見て、少女を引き寄せ、キスする。すると少女は瓶ビールに変わり、若者は誇らしげにその瓶を掲げる。女性から見れば、(キスで表現される)彼女の愛情がカエルをハンサムな男、つまりじゅうぶんにチンコ的存在に変える。男からすると、彼は女性を部分的な対象、つまり自分の欲望の原因に還元してしまう。この非対称ゆえに、性的関係は存在しないのである。女とカエルか、男とビールか、そのどちらかなのである。絶対にありえないのは自然な美しい男女のカップルである。幻想においてこの理想的なカップルに相当するのは、瓶ビールを抱いているカエルだろう。この不釣合いなイメージは、性関係の調和を保証するどころか、その滑稽な不調和を強調する。われわれは幻想に過剰に同一化するために、幻想はわれわれに対して強い拘束力をもっているが、、右のことから、この拘束力から逃れるにはどうすればよいかがわかる。同時に、同じ空間内で、両立しえない幻想の諸要素を一度に抱きしめてしまえばいいのだ。つまり、二人の主体のそれぞれが彼あるいは彼女自身の主観的幻想に浸かればいいのだ。少女は、じつは若者であるカエルについて幻想し、男のほうは、じつは瓶ビールである少女について幻想すればいい。現代アートや小説がこれに対置してきたものは客観的な現実ではなく、二人の主体が絶対に実現できない「客観的に主観的な」根底的幻想であり、瓶ビールにまたがっているカエルを描いたマグリット風の絵だ。そこには「男と女」あるいは「理想的カップル」というタイトルが書かれている(ここでシュルレアリストの有名な「ピアノの上に載ったロバの死体」[ルイス・ブニュエル監督『アンダルシアの犬』を参照]を連想するのはまさに的を射ているだろう。シュルレアリストもまた、この不釣合いな幻想への過剰な同一化を実践したのだから)。これこそが現代のアーティストたちの倫理的義務ではなかろうか。つまり、恋人の法要を夢想している者に、瓶ビールを抱きしめているカエルを突きつけるのだ。いいかえれば、徹底的に脱主体化幻想を上演することは、主体によっては絶対にできないのではなかろうか。
 このことはわれわれを、さらにもっと複雑な問題へと導く。もしわれわれが「現実」として経験しているものが幻想によって構造化されているとしたら、そして幻想が、われわれ生の〈現実界〉にじかに圧倒されないよう、われわれを守っている遮蔽膜だとしたら、現実そのものが〈現実界〉との遭遇からの逃避として機能しているのかもしれない。夢と現実の対立において、幻想は現実の側にあり、われわれは夢の中で外傷的な〈現実界〉と遭遇する。つまり、現実に耐えられない人たちのために夢があるのではなく、自分の夢(その中にあらわれる〈現実界〉)に耐えられない人のために現実があるのだ。
ジジェク『ラカンはこう読め!』99-101頁

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