知への容赦ない欲動『ラカンはこう読め!』8-9頁

これこそが究極の「文化」ではなかろうか。文化の基本的規則のひとつは、いつ、いかにして、知らない(気づかない)ふりをし、起きたことがあたかも起きなかったかのように行動し続けるべきかを知ることである。私のそばにいる人がたまたま不愉快な騒音を立てたとき、私がとるべき正しい対応は無視することであって、「わざとやったんじゃないってことはわかっているから、心配しなくていいよ、全然大したことじゃないんだから」などと言って慰めることではない。先のニワトリの笑い話は、このように正しく理解しなくてはならない。患者の疑問は、多くの日常的な状況に付随している疑問だ。浮気をしたり、喧嘩をしたり、怒鳴り合ったりしている夫婦は、たいてい(つまり彼らが最低限の人間性をそなえているなら)、子どもに気づかれないように努める。両親の不和が子どもに悪影響を及ぼすことをよく知っているからだ。だからそうした親たちが必死に維持しようと努めるのは、まさしく「自分たちが互いに嘘をつき、喧嘩し、怒鳴り合っていることを、私たちはよく知っているが、子ども/ニワトリはそれを知らない」という状況に他ならない(もちろん、たいてい子どもたちはちゃんと知っているが、悪いことは何も知らないふりをしている。そのほうが両親に負担をかけないで済むと知っているからだ)。もう少し品のいい例が必要なら、苦境に陥っている(ガンで死期が迫っているとか、経済的に苦しい)にもかかわらず、最愛の子どもにはそれを知らさないように努めている両親のことを考えてみればいい(文化が科学に敵対するのはこの理由による。科学は知への容赦ない欲動に支えられているが、文化は知らない/気づいていないふりをすることである)。
ジジェク「死の前に生はあるか――日本語版への序文」『ラカンはこう読め!』8-9頁

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?