泣き女『ラカンはこう読め!』49-52頁

ラカンがここで描いているのはごくありふれた情景だ。人々が劇場でギリシア悲劇の上演を楽しんでいる。だがラカンの解釈は、そこでは何か奇妙なことが起きていることを暴露する。すなわち、われわれの心の奥から自然に湧き上がってくる、泣くとか笑うといった感情や反応を、誰か他人――この場合はコロス――が引き取り、われわれの代わりに経験してくれるらしい。いくつかの社会でこれと同じ役割を演じているのが、いわゆる「泣き女」(葬儀で泣くために雇われる女性たち)である。彼女たちが、死者の親類たちに代わって、嘆き悲しむという光景を演じてくれるおかげで、親類はもっと有益なこと(たとえば相続問題)に時間を使うことができる。チベットのマニ車においても、これと似たようなことが起きている。経文の書かれた紙を車に巻きつけて機械的に回せば(もっと実用的なマニ車だと、風や水の力で回る)、マニ車が私の代わりに祈ってくれるのだ。(・・・・・・)そうしたことが起きるのは、いわゆる「未開」社会だけではない。テレビのお笑い番組の、録音された笑い声を思い出してみよう。おかしな場面に対する笑いの反応が、あらかじめサウンドトラックに録音されている。たとえ一日の辛い労働の後で疲れ果てた私が、笑わずにただ画面をじっと観ていたとしても、番組が終わったときには、サウンドトラックが私の代わりに笑ってくれたおかげで、私はずいぶん疲れがとれたような気になる。
(・・・中略・・・)
 相互受動性の例をもう一つ挙げよう。誰かが悪趣味なつまらない冗談を言い、まわりが笑ってくれないと、「こいつは面白い!」とかなんとか言いながら自分ひとりで大笑いする、という誰もが知っている気まずい状況だ。その人物は、聴衆に期待された反応を自分でやってみせたのだ。この状況は、あらかじめ録音された笑いとは似て非なるものだ。どちらの場合においても、たとえ全然面白いと思わなくとも、われわれは代理人を通じて笑っているわけだが、ひとりで大笑いする場合は、その代理人が無名の〈大文字の他者〉、すなわち目に見えない人工的な大衆ではなくて、冗談を言った本人だ。彼の強迫的な笑いは、われわれがつまずいたり何か馬鹿げたことをしでかしたりするときに思わず口にする「おっと!」に似ている。この「おっと!」の不思議なところは、私の失態を目撃した誰か他人が私の代わりに「おっと!」と言うことも可能であり、実際それでうまくいくということである。「おっと!」の機能は、私の失態の象徴的登録を実行することであり、私の失態を仮想的な〈大文字の他者〉に知らせることである。次のような微妙な状況を思い出してみよう。閉ざされた集団の全員が、ある醜悪な事実を知っている(しかも「全員が知っている」ということを全員が知っている)。にもかかわらず、誰かがその事実を不注意に口にすると、全員が動揺してしまう。なぜか。口にされたのは誰にとっても耳新しいことでないにもかかわらず、どうして誰もが当惑するのだろうか。それは知らないふりをする(知らないかのようにふるまう)ことができなくなったから、いいかえれば、いまや〈大文字の他者〉がそれを知っているからだ。
ジジェク『ラカンはこう読め!』49-52頁

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