素寒貧の徹底『小さなものの諸形態』234-236頁

災いそのものから逃れることは出来ないにしても、それにつきまとっている兇悪な暴力であるところの盲目性から、災いを引き剥がすべく、意識による試みを行うこと以外に救いの道はないのである。

 亡命中の「傷ついた生活」のなかで書きとめられたアドルノの断想であるが、「傷」そのものについて記述ではない。ここでなお模索されている「救い」は主情的ないし叙情的ではありえないだろう。個別性と一般性や限界と越境、そして「理解」と「批評」等々が幾重にもせめぎあう「力の場」の分析こそが、この哲学者の「批判」理論の核心にあったからである。先の一文を引きつつ、それを「批判的理性の叙情詩」と呼んだのは藤田省三であった。そう呼ぶことの当否は別として、肝腎なことは、いまや詩篇ではなく批判的断片の集積のうちに叙情詩が見出されざるをえないことである。そのことが再考されなくてはなるまい。根本的な喪失の苦難を直接的無媒介的な経験としてではなく「疎外の積極的辺境」において受容し解剖したアドルノの「理性の戦いの記述だけが現代に在りうる唯一つの叙情詩」(『精神史的考察』)として確認されるのである。
 現在の私たちはどうか。崩壊と喪失はアドルノたちよりさらに「辺境」化しうる深度に達している。この精神の状況に対して、「叙情詩的精神を禁じる秩序」(I・バーリン)のもとで、たえず「叙情の構造」を問いなおしながら、「正義の思念」その他を高い湿度で語ることなく、粉飾も自己憐憫も軽蔑もせずに向かいあうことができるだろうか。すなわち素寒貧を徹底することができるだろうか。若い論者たちは、たとえば「文化一般が、批評が不可能な身体的快楽の技芸へと還元されていっている」といい、「社会現象自体が解釈というものを受け付ける「厚み」を失いつつある」といって(東浩紀/大澤真幸『自由を考える』)、この事態に見切りをつけているようにみえる。なるほど素寒貧に「厚み」を見出すことは困難だろう。しかし、そこに徴候としての「燦めく瞬間」はありえないだろうか。
 もう一度ヴェイユに思いをめぐらそう。魂の運動における重力と恩寵のあいだにあって、「ただ自分たちの限界と自分たちの悲惨とをじっくり眺めること」を求めたヴェイユは、また恩寵のために「すべてをもご取られることが必要である」ことを確信していた。このような希求や確信にもとづく精神は、世界の組成をどのように「照射」するだろうか。
市村弘正『小さなものの諸形態』234-236頁

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