ヘーゲル的小話『イデオロギーの崇高な対象』河出書房新社(101-105頁)

いかにして真理が誤認から生まれるか、いかにして真理に向かうわれわれの道が真理そのものと一致するか、を完璧に例証している、有名な、じつにヘーゲル的な小話がある。今世紀の初め、ポーランド人とユダヤ人が汽車に乗り合わせ、向かい合って坐っていた。ポーランド人は落ち着きなく体をもぞもぞさせながら、じっとユダヤ人を見つめていた。何かに苛立っているらしい。とうとうそれ以上我慢できなくなって、こう切り出した。「あんたらユダヤ人は他人から最後の一銭まで引き出し、そうやって財産を溜め込むそうだが、一体どうすればそんなにうまくいくんだね」。ユダヤ人は答えた。「わかった、教えてあげよう。だが無料じゃだめだ。まず五ズオチ払いなさい」。その金額を受け取るとユダヤ人は話し始めた。
「まず、死んだ魚をもってきて、頭を落とし、水を入れたコップにはらわたを入れる。そして満月の晩、夜中の十二時に、そのコップを教会の墓地に埋めるんだ。」「それじゃ」とポーランド人がじれったそうに言った。「その通りにすれば、おれも金持ちになれるのかね」。「あわてなさんな」とユダヤ人は答えた。「やらなくちゃいけないことはまだある。だが、この先を聞きたければ、もう五ズオチ出しなさい」。ふたたび金を受け取るとユダヤ人は話の続きをはじめたが、しばらくするとまた金を要求し、しばらくするとまた・・・・・・。とうとうポーランド人は怒りを爆発させた。「このいかさま野郎め、おまえの狙いが何か、このおれから最後の一銭まで巻き上げようとしているんだ。」ユダヤ人は諦めの表情を浮かべ、落ち着き払って答えた。
「さあ、これでわかっただろう、われわれユダヤ人がどうやって・・・・・・。」
 この小話のどの部分も、解釈をほどこすことが可能だ。まず最初に、ポーランド人がユダヤ人に向ける、好奇心にみちた、探るような視線。これは、ポーランド人が最初から転移関係に囚われていることを意味している。このポーランド人にとって、彼の目の前いるユダヤ人は、他人から金を巻き上げる秘訣を「知っているらしい主体」を体現しているのだ。この物語の要点はもちろん、ユダヤ人がポーランド人を騙していないということだ。彼は約束を守り、他人から金を巻き上げる方法を教えた。ここで要になるのは結果、すなわちポーランド人が怒りを爆発させる瞬間と、ユダヤ人の最後の言葉の距離の、二重運動である。ポーランド人が「秘密なんか最初からありゃしないんだ。おまえはただ、このおれから最後の一銭まで巻き上げようとしているんだ」と怒鳴ったとき、彼はすでに真理を述べている。ただし彼自身はそれに気づいていない。つまり、彼にはユダヤ人の巧妙なやり口がただの詐欺にしか見えない。彼が気づいていないのは、まさにその詐欺によってユダヤ人が約束を守り、金をもらった分だけのもの(ユダヤ人が・・・・・・する秘訣)をあたえたのだということだ。ポーランド人はたんに見通しを誤っただけだ。彼は、どこか話の最後のほうで「秘密(秘訣)」が明かされることを期待する。つまりユダヤ人の話を、最後に明らかにされる「秘密」にいたる道と見なしている。だが、真の「秘密」はすでに話それ自体の中にある。すなわち、ユダヤ人がその話によってポーランド人の欲望をいかにして捉えたか、ポーランド人がいかにしてその語りに吸い込まれ、それに金を払う気になったか、ということの中に秘密があるのだ。
したがって、ユダヤ人の「秘密」はわれわれ自身(ポーランド人)の欲望の中にある。ユダヤ人はわれわれの欲望の捉え方を知っているという事実の中にあるのだ。だからこそ二重に捻りのきいたこの話のオチは、精神分析治療の最後の瞬間、転移の消滅、「空想を通り抜けること」に相当する、といえるのである。怒りを爆発させたとき、ポーランド人はすでに転移から抜け出ているが、彼はまだ空想を通り抜けていない。それは、ユダヤ人が詐欺によって約束を守ったのだということを理解したときにはじめて達成される。われわれは魅惑的な「秘密」を求めて、ユダヤ人の話に夢中で耳をかたむける。この「秘密」こそまさにラカンのいう〈対象α〉すなわち空想のキメラ的対象である。この対象はわれわれの欲望の原因であるが、同時に――これがこの対象のもつパラドックスなのだが――この欲望によって遡及的に設定されるものである「空想を通り抜ける」ことを通じて、われわれは、この空想―対象(「秘密」)がわれわれの欲望の空虚さを物質化したものにすぎないことを体験する。
 いま一つの有名な小話もまったく同じ構造をもっているが、そのことはふつう見逃している。われわれがここに引くのは、いうまでもなく、カフカの『審判』第九章の、掟の門をめぐる小話である。その最後のところで、死にかけている田舎の男が門番にたずねる――

  「誰もが掟に到達しようとしているのに、これまで私以外には誰も入れてくれと
  求める者がいなかった、などということにどうしてなったのですか」。
  門番は、男が力尽きようとしており、耳も遠くなっていることを知り、男の耳元で
  怒鳴った。「おまえ以外の誰もこの門には入れてもらえなかったのさ。なぜなら、
  この門はおまえだけけのための門だからだ。さてと、門をしめることにしよう」。
  (Kafka,1985,P.237)

 このオチは、ポーランド人とユダヤ人の小話のオチとまったく同じだ。主体は、自分(自分の欲望)が最初からゲームの一部だったこと、この入口は彼のためだけの入口だったこと、話の目的はたんに彼の欲望を捉えることだけだったこと、を体験する。ポーランド人とユダヤ人の小話にもっとも似るように、『審判』のこの小話に別のオチをつけることだってできよう。長いこと待ったあげく、田舎の男は怒りを爆発させ、門番に向かってわめきちらす。「このいかさま野郎、どうしておまえは、なにか大変な秘密へと通じる入口を守っているような振りをするんだ。門のむこうに秘密なんかないことも、この門はおれのためだけの、おれの欲望を捉えるためだけの門だということも、知っているくせに!」。門番は(もし分析家だとしたら)平然とこう答えるだろう。「これでやっとわかったろう、門の向こうにある真の秘密というのは、おまえの欲望がそこに持ち込んだものにすぎないのだ・・・・・・」
 どちらの場合もオチの性質は、「悪無限」を克服・破壊するというヘーゲル的な論理に従っている。つまり、どちらの場合も出発点は同じだ――主体がある実体的な「真理」に直面する。彼はその秘密から排除されており、その秘密は永久に彼から逃げつづける。それが、無限に続く門のかなたにある、到達できない掟の核心であり、ユダヤ人の話(それは永久に続くかもしれない)の最後で待っている、ユダヤ人がいかにして他人から金を巻き上げるかという秘密である。そしてどちらの場合も解決は同じだ。主体は、ゲームの開始時から門は彼のものだったことに、また、ユダヤ人の話の最後にある真の秘密は彼自身の欲望であることに、気づかなければならない。要するに、「他者」にたいする自分の外的な位置(自分自身が「他者」の秘密から排除されているように体験されるという事実)が、「他者」自身にとっては内的であることに、気づかねばならない。ここにあるのは、哲学的反省には還元しえない一種の「再帰反省性」である。主体を「他者」から排除しているようにみえるまさにその特性(「他者」の秘密――掟の秘密、いかにしてユダヤ人が・・・・・・という秘密――に到達したいという主体の欲望)が、すでに「他者」の「反省規定」である。まさに「他者」から排除されているがゆえに、われわれはすでにゲームの一部なのである。
ジジェク(鈴木晶 訳)『イデオロギーの崇高な対象』河出書房新社(101-105頁)

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