デモクラット『読むという生き方』45-46頁

もう一つ、これは私には大切な思い出なのだが、挿話を特権的に私物化するのは藤田省三の精神の使用法に反するので、短く記しておく。私が幾つかの大学の非常勤講師などで糊口をしのでいた三十代半ば頃、大学に復職したばかりの藤田から皺くちゃの紙片を手渡された。そこには彼の研究室の合鍵が包み込まれていた。さりげなく私の出講日を確認した後、部屋を自由に使っていいと小声で言って立ち去った。「デモクラット」とはこのようなものなのか。私には及びがたいものを感じ、ほとんどうちのめされた。
 ちぎっては投げるという猛烈な第一印象が修正されたのは、藤田が喫茶店や自宅など場所を選ばず、若い世代へ「語り継ぐ」ことを使命と感じているかのように、戦中戦後に見聞きした出来事を細部にわたって丹念に話すことを知ってからである。そして物事の細部に対するこの注意深さは、生活全般に及んでいた。領域横断的な普遍的思考と個別的な出来事への注意深い関心の抽象化の一歩手前で踏みとどまり、その両極性を彼なりの強靭な思考力で統合していたのであった。教えられた膨大なテクスト以上に、精神と思考の一端でも「相続」したいと切実に願った。正確には、この時初めて藤田省三に「出会った」といえるだろう。七〇年をもって大学を辞めてしまった彼を追って、私は文字通り学び習うことにした。
市村弘正『読むという生き方』平凡社 2003 45-46頁

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