フルートとキス『ぼくの大好きな青髭』

でも時間がたつにつれ、ぼくは事の真相を馬鹿笑いを以って総括できるようになった。つまりぼくは、たとえばこんな具合に誰か話の通じるやつにしゃべってみたくてたまらなくなってきたわけだ。すなわち、なあおまえ、フルート吹きたいと思わないか? え? 何故かって? うん、ほら、高橋っての知ってるだろ? そうあのサエないやつ。あいつがこないだ突然フルート持ってやってきて、伴奏してくれっていうんだ。それが、半年前から始めたっていうんだけどわりとうまくてね。そうそう、小学生の頃鼓笛隊に入ってったていうんだよ。そう、あの鼓笛隊だよ。まぎれもなく。でも今は、ちゃんとクラシックなんだ。『アルルの少女』かなんかでね。それがまあやけに熱心で、それこそ恍惚として何回でも奏するわけだ。ぼくがつきあえば、三日三晩ぐらいは平気で繰返したろうね、あれは。で、そこでまあ訊いたわけだ。どうしてフルートを始めたのかって。そうしたらそれがなんだと思う。ショーペンハウアーが出てきたんだよ。ショーペンハウアーが。そう、あのショーペンハウアーだよ。つまり、要するにショーペンハウアーがフルートが大好きだったんだな。え、だからどうなのかって? やだなあ、分かるだろ? いや、うん、だからつまり高橋はね、自分もショーペンハウアーみたいに永生きして白髪の老人になって、それでフルートを吹くっていうんだよ。バカ、どうして笑うんだよ。おまえ。失礼じゃないか・・・・・・。
 もちろんぼくは、実際にはこのことを誰にも話さなかった。ただ一度、うちの兄貴に漠然と、フルート吹きたいと思ったことある? と始めかけたことはあるのだが、これは幸か不幸か軽く一蹴されてしまったわけだった。なんだバカだな、フルート吹こうと思ったら、女の子とキッスもしちゃいけないんだぞ。唇が大事でね。ドン・ファンのおれにできるか・・・・・・。
 いずれにしても、その後、高橋とは一度も口をきくこともなく過ぎてしまった。自殺を企てるなんて思いもつかなかったわけだ。
庄司薫『ぼくの大好きな青髭』新潮文庫 2012年(初出 1980年 中央文庫)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?