ねこふんじゃった『ぼくが猫語を話せるわけ』95-99頁

 『ネコフンジャッタ』というピアノ曲をご存知だろうか?
 知らないという人は、なんていうか、この日本の社会においてちょっと「モグリ」みたいな人ではあるまいか、とぼくは思ってしまう。いや、『ネコフンジャッタ』という曲名を知らなくても、聴けば必ず心当たりがあるのではなかろうか?

 ネコ、フンジャッタッ
 ネコ、フンジャッタッ
 ネコ、フンジャッ、フンジャッ、フンジャッタッ
 ネコ、フンジャッタッ
 ネコ、フンジャッタッ
 ネコ、フンジャッ、フンジャッ、フンジャッタッ
 ネコ(以下略。ああクタブレタ)

 突然ながらぼくの極めて私的感情を述懐すると、ぼくはこの曲をめぐって、なんとも甘く懐かしいような、一方ではどこか悲しいようなやるせないような、そんな複雑なもの想いを抱いている。
 甘く懐かしいようなというのは、この曲を耳にするとぼくは、たちまちあの小学校の教室や廊下や校庭を思い出すのだ。休み時間になったかと思うと、突然ピアノやオルガンの置かれた各教室の方からせわしなく響いてくるネコフンジャッタッ・・・・・・。恐らく弾き手が次々と入れ替わるためか、速くなったり遅くなったり、時にはデュエットやトリオになって、でも何度でも繰返されてくるネコフンジャッタッ・・・・・・。
 うん、ネコフンジャッタ専門のものすごい名手ってのもいたっけ。とにかく、目にもとまらぬほどのスピードで弾きまくる。どういうわけかこの曲は、百メートル競争みたいにひたすらに速さを追求する趣があるらしく、そのスピード競争のチャンピオンとして全校に名を知られるような肥ったお下げ髪の少女なんてのもいて、彼女が弾いている時にはすぐ分かったりして・・・・・・。うん、小学校時代ってのは楽しかったなあ。
 ところで、誰にでも心当たりがあると思うが、小学校時代の女友達の中にも、すでに、それなりの女王様とか姐御とかオールドミスとか、男の子と女の子の間をひたすら駆けまわって「橋渡し」に熱中する小間使いタイプとか、まあそれぞれのタイプがはっきりあるわけだ。そしてそんな中には(これは男にだけしか分からないかもしれないが、)どこといって目立たないのだけれど、なんとなく翳りのある気にかかる少女というのがきっといる。そして少年たちはみんなその少女に、明らさまに好意を示したり意地悪したりしない代わりに、こっそり目立たないような形でいつの間にか気をつかっている・・・・・・。
 ぼくの小学校時代にもそんな少女がいた。やや目の大きな美少女だけどなんとなく蒼白く淋しげで、勉強もできる方じゃなく(いや、はっきり言って相当できない方だったと思う)、少年なりにぼくが収集した情報を綜合すると、どうも彼女の家庭は母親をめぐってトラブルが続いているらしく、欠席も多くて、担任の先生が彼女に対してどこか特別の注意を払っているのがそれとなくうかがわれて、そう思って眺めてみると、授業中にもなんとなく上の空みたいに何かに気をとられている風情で・・・・・・、つまり、妙に気になるロマンチックな翳のあるひっそりとした女の子だったのだ。
 ところで、あれは確か長い夏休みも終わりに近づいた頃だったっけ、クラスで作っている花壇の世話をする当番かなんかで、ぼくはたまたま彼女と相棒になった。そして、詳しい話は省くとして、その帰りがけに彼女はぼくに、それこそ必死の面持ちでおずおずと言ったのだ。
 ――ね、あの、ちょっとピアノきかせてくれない?
 ああ、ぼくがどんなに興奮したことか。何故ってその女の子ときたら、およそ自分の方からその希望を述べたり他人に頼み事をしたりすることがあるなんて、信じられないようなタイプだったんだから。しかもその頼み事がぼくの腕に覚えがあるピアノとは・・・・・・。
 ところがなんだ。もう分かったと思うけれど、彼女に対して溢れるばかりのやさしさを抱いてピアノの前に座り、そして、何を弾こうか?と訊ねたぼくの耳に、目を輝かせた彼女が囁きかけたのは、
 ――ネコフンジャッタ
 ――え?
 ――ネコフンジャッタ

 ああ、ぼくがその時どんな気持ちだったか。つまり、ま、どっちにしても五十歩百歩なんて悪口言うムキもあるかもしれないけれど、同じ種類の「名曲」にもいろいろあるじゃないか、『エリーゼの為に』とか『乙女の祈り』といった種類のがさ・・・・・・。
 で、それでぼくがどうしたかというと、とにかく彼女のために黙って『ネコフンジャッタ』を弾いたわけなんだ。でもそれが、言い遅れたけれどぼくはネコフンジャッタをそれまで一度も弾いたことがなかったもんだから、耳を頼りに音を探しながらやるもんでメッタメタ。彼女は明らかにイライラし始め、その目の中の星のような輝きが次第に消えていって・・・・・・。うん、もうぼくは、悲しいような侘しいような、やるせなくて泣きたいみたいな気持ちでね・・・・・・。

 でも、もうあれから三十年近くになるんだなあ。
 ――さあ、タンク。おまえ、一生懸命お勉強しなくちゃだめだよ。おまえ男だろ?男ってのはね、なんでもやっとかなきゃいけないんだ。何故だって?だってさ、女の子ってのはねキミ、奇想天外なんだからね。分る?うん?よおし、じゃあアクビなんかしてないで、ホラ、ネコフンジャッタ・・・・・・。
庄司薫「ネコフンジャッタ」『ぼくが猫語を話せるわけ』95-99頁

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